静まる森 story by kaname inoue
映子は今、夢の中にいる。そこは窓の外からさす光も弱く、薄暗いところだ。周りは少しばやけて見え、何もかもが曖昧だった。静寂が保たれていたそこで一定の音が響く、刃物の音だ。包丁が俎板にあたる音、それも早い速度で、サクサクサクサクと何かを切り刻んでいる。
映子は調理をしていた。ただ夢中で腕を動かし目の前のものを全て切り終えることで頭がいっぱいだった。もうすぐ出来る、もうすぐ出来る。何を調理しているのか分からない。なのにこれを全て切ってしまえばこの途方も無い作業を終えることが出来るのだと思った。もうすぐ出来るから、もうすぐ終わるから。気は焦り、動かす手もそれとともに早まっていく。
彼女が刻んでいる何かは、多分、野菜だった。青く淡いそれがとても大きく見え、いくら切り刻んでも終わりそうになく思った。映子は包丁を置き、手を休める。それはどうも自分一人では処理出来そうにない。どうしてこんなに一生懸命作る必要があるのだろう。段々とその調理が馬鹿馬鹿しく思えてきた。
椅子に腰掛けると背もたれに頭をのせた。私は一人ではなかったか。彼女は目を閉じ考える。私は一人で暮らしているのではなかったか。しばらく考える……いや、違う、そう、私は結婚したのだ、私は二人で暮らしている。まあ、そんなことはどうでもいい。どちらにしろこんなに一生懸命、こんなに多くの野菜を刻む必要はないはずだ。私は何をしているのだろう。何をがむしゃらにすることがあるだろう。一心不乱にならずとも、ゆっくりとすればいつかは出来上がるのに。
立ち上がって次に彼女は洗濯物を干すために、庭に出た。半分以上干し終わったところで手を休め、干されている衣服を眺めた。それらは風になびいて、気持ちよさそうに揺れている。庭の三分の一ほどそれでおおい尽くされ、太陽が隠れているのに、白い洗濯物がやけに眩しく光っていた。 腕には今から干す衣類が数枚束ねられており、次々にそれを引っかけていくと、最後に残ったのは、子供用の可愛いシャツだった。
「ママ、ママ」
スカートの裾をつかまれ、映子はその方向に振り向く。
「ママ、パパがね、あそこに木を植えるんだって。にんじんがなるんだって。ウソだよね、にんじんの木なんてないもんね」
映子は子供の頭をなでて微笑んだ。
「そうね、にんじんの木なんてないよね、多恵ちゃんがにんじん嫌いって言うから、パパがそんな意地悪を言ったのよ。大丈夫、にんじんなんてならないから」
少し涙ぐんだ顔をした娘が彼女を見上げている。その姿が可愛くて、映子はもう一度その頭をなでた。娘の多恵子は上機嫌に笑うと、父親のほうへかけていき、庭の隅で二人はじゃれあい始めた。その横には、娘の背丈ほどの、まだ成長しきってない木が植えられていた。
何の木だろう。映子はそれを見つめた。あの人が植えた木は一体何だろう。どんな花が咲き、どんな実をつけるのだろう。
微かに風が吹き、青々とした葉が揺れる。打ち寄せる波のように揺れている、ゆるやかに揺れ手を振っている、それはまるで彼女を招いているように思えた。
(来たくはないか? なりたくはないか? 嫌ではないか?)
どこからかその声が聞こえてくる。映子も揺れる、波のように揺れる。左右に、円を描くように揺れる。私はいいの、満足しているのよ、私はいいの、これでいいのよ。頭のなかで彼女は何度もその言葉を繰り返していた。
頭痛とともに映子は目覚め、額を押さえながらベットを抜け出した。
ベットの脇には、花の飾り付けが彩られている白木の小さなベットがある。映子はその中で眠っている娘の顔を眺めた。その可愛らしくやわらかな頬をなで、しっかりと握られた小さな手に触れる。夢と未来を握っている手。この指が開いたとき、この子の夢も、ここから弾きだすのだろう、この手が大きくなっていくほど、この子の未来も膨らんでいくだろう。
世の中には、育児ノイローゼなどで、母親が子供を責任もって育てることが出来ない人も少なくない。しかし、映子にとって、そんなものは無縁であった。娘の未来を考えているだけで、一日を楽しく過ごすことが出来た。神様、この子の道が歩きやすいものでありますように、この子が道に迷ってしまったときには、どうかその手をおかし下さい。
映子は無宗教にもかかわらず、毎朝、娘の安全を祈るのが日課になっていた。
これは友人、美香の影響でもある。
ときたま思いついたふうに美香は宗教徒のように説いてみせたりする。それでも映子自身は無関心なのだが、神の存在を信じなくもなかった。やっぱり、神様はいるのよ、と何の根拠もなしに言ったりすることもあった。
今朝見た夢を、映子は思い出す。
普段あまり夢など見ない映子にとって、それは不思議なくらい鮮明で、現実のように思われた。特に、娘が、五歳ほどに成長していた姿ははっきりと覚えている。確か、赤いスカートをはいていた。赤い色がすきなことの影響かしら、とも思う。その裾の辺りには可愛い花がプリントされていて、それのお揃いなのか、赤いゴムで長い髪を二つにまとめてあった。唇もほんのり赤く、小さな歯がそこから見え隠れしていた。
娘の泣きだしそうな顔、機嫌のより笑顔。目を閉じると今でも五歳の娘にあえそうな気がする。その可愛い口から、ママママともれるのを感じる。今、目の前で眠っている、そのやわらかな髪に触れると、娘の多恵子は体を震わせ、唇を微かに動かし何やら寝言を言っているように見えた。この子も夢を見ているのね。どんな夢を見ているのかしら? 未来に待ち受けているものが見えるのかしら? 私はいるのかしら? それにしても本当に、赤ん坊の見る夢って何なんだろう。不安なのかな、何もみてないのかな、きっと色々考えているんじゃないのかな、大人になったらどうでもいいことを沢山考えているんじゃないかな。
永遠に娘の顔をみていたいほど、映子は微笑む。多恵子も私の夢のように、三人で過ごすことを夢見ていてくれたら嬉しいのだけれど。
ベットで眠っている夫が寝返りをうつ。映子、映子、もう起きたのか。寝言のように呟いている彼の横に彼女は戻って腰掛けると、うん、もう起きてるよ、今から朝食を作るから、と彼の額に口づけた。
映子は茶碗にもったご飯を差し出すと、何かを訴えるような目をして、夫を見つめた。夫の和也は、それに気づき茶碗を手元に置くと反対に映子をじっと見つめ笑った。
「何か言いたそうだな」
映子も無言で笑う。
「今度の土曜三人でどこか行くか。どこがいいかなあ。多恵子が好きそうなところ」
「多恵ちゃんの好きそうなところねえ、うーん、公園はこの前行ったし後は……動物園、遊園地、それから……」
「おまえ、多恵子に聞いたのか? 相談もなしで決めると多恵子怒るぞ。会社から戻ったら早速聞いてみよう。でも、確か今度は動物園に行きたいようって言ってたな」
うそばっかり。そう言って映子は声をたてて笑った。
夫が会社に行くと映子の変わらぬ日常が始まる。掃除、洗濯、多恵子が起きるとミルクを作り飲ませる。泣きだすとおしめを代えたりあやしたりする。そして、ちょっとだけ違う日常、美香と会う約束があるため、その支度を始めた。
いつもの女の子にベビーシッターを頼むと家を飛び出し足を早めた。映子は週に一回ほど多恵子から開放される。本当は開放されるという言葉は好きではない。それにベビーシッターに娘を任せるのは少し不安でもあった。しかし、こういう時間があるおかげで神経質なところもある彼女にとっては、いい気分転換になるように思えた。それに夫がこのことを言い出してくれたことが一番嬉しいことでもある。映子の神経質なところを見抜き、負担が全ていってしまわないようにとの配慮でもあった。
夫とは職場で出会い結婚、りっぱな家を持つことが出来たし、子供も授かり元気に成長している。映子の望みどおりの生活である。その上、夫に色々と気遣わせてしまうのは申し訳ない気もしていた。彼女はその分頑張り、夫の力になりたいと思う。
キリストが願うのは、家庭の幸福。これは美香の口癖でもある。その言葉は、映子の心に強く訴えかけていた。幸福はとても重要な幅をしめており、いつもそうであるようにと努めた。努める、という言葉は間違っているかもしれない。しかし、幸福だと思い、そう願うことで、本当の幸福があるのだと確信めいた気持ちもあった。
いつのころからか、そうやって毎日を送っている。そして、今も家庭の幸福を願い、毎日が実際幸福であった。
それは平凡でもある。それは平凡と隣り合わせなのだ。この平凡な生活を映子は満喫している。万人が手に入れることが出来る、とは思えない、この平凡で幸福な生活を。
いつも何らかの不満をかかえ、いつも夫と別れたいと思い、子供を育てることに嫌気がさしたりする。これは平凡ではない。落ち着いたおだやかなときが流れるものとは到底違う。波のように、夜空のように、静かで単調に流れるそれとは違う。その時間を味わうには、子供を愛し、夫を愛し、家庭を愛すること。これも美香の受け売りだろうか。いや、いつも考えていた。それがたまたま美香の言っていることと似通ったのだろう。幸福なんていうものは、結構単純で自分の心持ち次第で、なんとでもなるものかもしれない。その単調な音楽を、人はうまく聞き取れないのだろう。
美香はいつも十分は遅れてやってくる。そして、幸福も映子より少し遅れてやってくる。彼女は一度結婚したけれど、簡単に別れてしまった。映子が結婚し、しばらくして彼女も結婚したのだが、彼女が幸せそうな顔をしていたのは結婚するまでの間で、その後、彼女の表情はいつも暗く映子に電話をかけてきては不満をいう毎日が続いていた。しかし、ある日、すっきりした顔をして、映子のところへ訪れ、こう言った。
(私、離婚したのよ。これでせいせいしたわ……私、夢をみたの、私の幸福はまだおとずれてないのよ。キリストは全ての民に幸福はあるといってるの、本当に別れて良かったと思うわ、きっと幸せになれる、私の幸福はこれからなのよ)
彼女が宗教の話をしたのは、これが初めてだったかもしれない。結婚する前から、教会に時たま足を運ばせていたらしいが、熱狂的な信者ではなく、毎週通っていたわけでもなさそうだった。だからそんなことを言い出した時、彼女の言っていることがどこまで本気なのか映子には分からなかった。ただ口癖のように彼女は言っていた。
(映子、人を愛するってこと、どういうことか分かる? 違うよ、全ての人を愛するってことよ……皆いい人ばかりなの、皆幸福よ、あそこにいると幸福になれる気がするの。全ての人を愛していればきっと私も誰かに愛してもられるわ。映子、これってすばらしいことだと思わない、皆幸福なの、幸せなのよ)
普段彼女は宗教のことなど話題にものぼらせない。しかし、自暴自棄に陥ったり、自分は不幸なままではないかという不安を抱くとその言葉をやたらと使う。
そうやって自分は幸福なのだと誇張し、言い張ったりしないと不安なのだろう。結局彼女は誰かに頼らなければ生きていけない普通の人間なのだ。そして、映子自身もそうなのだろう。ただ、今まで宗教などに頼らずに生きてこられたのは、うまい具合、本当にちょうどいい幸福が彼女の前にはいつも用意されてあったからだ。映子はいつもその台の上に揺れることもなく、倒れる心配もなくいつもがっしりと安定したそれに、ちょこんと座っていた。ただ行儀よく座っていたのだ。
案の定、美香は十分ほど遅れてやって来た。映子は片手に持っていたカップを置くと、入口できょろきょろしている彼女に手を振った。
「来るときさあ、電車のなかでね、勧誘めいたことしちゃった」
美香は上目遣いで映子をみて、目を細め鳥が鳴くように笑った。
「何? まさか、美香の口癖、キリストはねえ、が復活したの?」
「そう、どうして分かったの? だってあまりにもおかしいんだもん。つい出ちゃったの」
覗き込むようにして彼女のほうを見ると、彼女は恥ずかしそうにうつむいて笑い、話を続けた。「そう、その人さあ、八〇くらいのおばあさんなんだけどね、重たそうな荷物もってヨロヨロになりながら電車のなかを歩いていたの。きっと座りたくて席を探していたんだと思う。私の前を通ったから、私、みかねて席を譲ったの、そうしたら、本当に嬉しそうな顔をして、ありがとう、こんなことは滅多にないんだよ、独り者の老人にはいいことなんて何も無いからねって言うの。だから、私は言ったの。そんなことはありませんよ、皆席を譲りたがっているんですよ、ただ、そのタイミングを知らないだけなんです、私がそれを知っているのは多分教会へ毎週行っているからでしょう、本当は行ってないんだけどね、(彼女はちらっと舌をだす)どうです、あなたも来てみませんか、いい人ばかりなんですよ、本当にいい人ばかり、あなたがそんな人たちにかかわればきっとこんなことはなくなると思いますよ、あなたも幸福でいられるし、そして、あなたが幸福ならきっと他人も幸福な気分でいられるでしょう」
美香は両手をあわせると、神に祈る格好をし、アーメンと呟いた。そして、また笑いだす。
「そのおばあちゃん、呆気にとられていたわ、ああ、私って結構すごいでしょ、この熱い信仰心が私をそうさせたのよ、まあ、幸せいっぱいの映子には通じないけどね、でも、考えてみて、映子も私もああなるときが来るのよ、歳をとってしまうときがね、ああ、別にだからって宗教をすすめているわけじゃないの、私だって本気でやってるわけじゃないんだからね、ただね、歳をとってしまうのは何だか恐いわ、私の姉のうちに、ボケたおばあちゃんがいるんだけど見てるととても不安になるの」
「不安って、美香。そんな先のことなんて考えなくていいじゃない、ほら、よく言ってるじゃない、キリストは家族の幸福を一番に願ってるって。美香もきっと幸福な家庭をきずける。そしたら、あっと言う間に人生なんて終わっちゃうよ」
美香は何か言いたそうに口を開いたがすぐに下を向き、説き伏せられた子供のようにしんみりとした顔をした。
その日の夕方、映子は夕食の用意にとりかかり、野菜を刻んでいた。軽快とはいえない、切れ味の悪そうな音を、サクリサクリとたたせる。
(でもさ、幸福、幸福って言うけどさ、本当の幸福って一体何かしら? あのおばあさんだって不幸そうに装っていたけど、実はとても幸福なんじゃない?)
映子は美香の言葉を思い出していた。彼女の言ったことが未だに気にかかっているからだ。
(映子もさ、今の生活が本当の幸福なのか疑問を持ったことはない? 私は疑問に思うの、いくら宗教に頼ったって、そこで味わう幸福は、作り物じゃないかって。私はがむしゃらに幸福っていう料理を自分自身の腕で独りきりで作り出しているんじゃないかなあ。目でおいしさを堪能し、実際私はそれを味わったわけではない気がする、とても味気ないの)
彼女のその言い方が、映子にとっては気に食わなかった。
そもそも美香の性格上、そんなことを言いそうになかった。いつもあっけらかんとしていて、楽天家で、教会へ行ったりしていたことも一種の暇つぶしであると思っていた。
作り物の幸福……その言葉が、一番に映子を苛立たせる。作り物……この世に作り物なんてあるのかしら? それは私への当て付けじゃないかしら? 私が幸福であるから嫉妬しているんじゃないかしら?
あまりに乱暴に包丁を振りおろしたため、ちょうど包丁が指にふれた。赤い線が指に走る。痛みはなかった。線が膨らみ、線でなくなるとそこから赤いものが流れだす。小さい点が白い板のうえにおちる、もう一点おちる、そこで水分を補給するとそれは段々と膨れあがる。膨れあがり、膨れあがり、また別の場所へと流れだす。映子はその様子をただ見つめていた。まだ痛みはない。何も感じなかった。ただそれを見つめていた。
(ねえ、映子、本当の幸せってあると思う? 幸福なんて言葉嘘っぱちじゃないかしら? そんなものないのよ)
翌日になっても、映子は気分が晴れないままだった。美香は教会での影響なのか、突然哲学めいたことを言ってみたりして映子を悩ませることはあったけれど、今回の彼女の言い方は、幸福な生活をおくる自分への皮肉であるように思えた。何かしらを言い返そうと思ってみるのだが、いつも逆に言い返されてしまう、彼女にはかないそうにないのだ。
「おい、映子、木を買ってきたんだ、庭に植えるから手伝ってくれないか」
庭のほうから夫の叫ぶ声が聞こえてくる。映子が表にでると、そう重くないのか、運送屋が軽々と木を肩にのせて庭に運びこもうとしていた。いつのまに掘ったのか、庭の隅には大きな穴が用意されていた。
「めずらしく朝から庭の手入れをしていると思ったら、こんなことを企んでいたのね」
木が立てられると、夫はスコップを片手に持ち、素早く土を入れ始めた。
「さあ、おまえのそこの小さいスコップを持って土をいれろ。二人ですることに意義があるんだからな」
彼の顔は満足そうにゆるんでいる。映子も少ないながら手伝うと、すぐにそこは山盛りになった。その新しく庭の住人になった木を眺める。
「でも、どうして木なの?」
不思議そうに彼をみやると、待ってましたといわんばかりに得意げな顔をした。
「この庭はこれから作られるんだよ、今は花くらいしかない殺風景な庭だけれど、多恵子の成長と同じくこの庭も成長していくんだ、花はすぐ枯れるだろ、でも、木はいつまでもしっかりと地面に根をはってるんだ、ぼくらもそんな木にならなくちゃね」
お互い土で汚れている手をかたく握りしめる。これが幸福なのだろう。映子は思った。みることの出来ない、つかむことの出来ない空虚なはずの幸福がこやって今、形になっている。
今まで正直いって不安であった。どこか頭の隅でわだかまりを持ち続けていたのだ。幸福という概念を自分で勝手に作り出しているのではないか、それは自己満足でしかなく、勝手な思い込みによって成り立っているのではないか。きっと美香の言葉が気になったのも、自分がそういうものを抱え込んでいたせいだろう。映子の心から何かがとけていくようで、清々しい気分だった。
さわさわと揺れた。さわさわさわ……と音がした。ゆるやかに波うち揺れている。さわさわさわ……さわさわさわ。
深夜に映子は目が覚めた。夫は横で寝息をたてている。多恵子も深い夢のなかだ。映子は起き上がってベットへ腰掛け、頭を押さえた。
何かの音がした。しきりにその音が頭に響く。彼女は一階へ降り、部屋を歩きまわって異常がないか調べる。何事ないようだった。再び、二階へあがると布団に体を滑り込ませ、無理遣り目をつむって眠ろうとした。
段々とその音は遠くなっていき、そう耳障りにはならなくなってきた。ただ微かには聞こえてくる。
さわさわさわ……。
映子は再びその音につられて目を開いた。
そこはとても薄暗い場所である。
上を見上げると、そこには星が瞬いている。しばらくそのきれいな星を眺めた。
映子は今まで星をじっくりと眺めたことがなかった。それが美しいものだとも思ったことがない。しかしながら、この夜、夜空にまたたく星群は、彼女を魅了させた。
そのとき何やら気配を感じて、彼女は周りを見渡した。数メートル先に大きな木があり、そこに影が動くのがみえた。それは、どうやら人間らしく、男か女かは分からないが、どうやら大木のまわりを何度も歩き回っているようである。
恐かった。その人影が恐ろしいわけではない。この場所にいるのが、急に恐ろしくなってきたのだ。この静かな夜に、木の揺れる音だけがそこらじゅうに響く。さわさわという音だ。葉と葉がしきりに交じりあう音。それは木々の歌声のようであり、静かな会話でもある。誰かが来た、誰かが来た、見知らぬヤツが足を踏み入れた。何も話さない、何も話せないヤツだ、教えてやろう、こちらにおいで、さあ、側においで。優しく語りかけてくるその声は、孤独者への誘惑だった。
恐い、とても恐ろしい。それは映子の感情ではなく、あの人影、今見えるあの人物がひどく恐がっているのだ。あの人を助けなければ。映子はそう思う。映子も感じるのだ、人影が感じるのと同じように、彼女は非常に恐がっている、と。それでも木々は会話を止めない、会話を続ける。嫌ではないか? そのままでいいのか? 後悔はしないのか?
映子は跳ね起きた。額から汗が流れ、頬をつたう。それを拭いもせず立ち上がって、窓の前に立った。彼女自身、どうしてここに立たねばならないのか分からない。体かそれとも見知らぬ意志が、彼女に窓を開けさせた。そして、庭の隅を凝視する。表では、木が揺れていた。さわさわと揺れていた。
「ねえ、映子、そう思わない?」
お菓子を頬張りながら、美香は映子の肩を叩いた。
「また、ぼおっとしてる。どうしたの、何か悩みでもあるの? あっ、分かった、だんなさんと喧嘩でもしたんでしょう? ダメよ、映子にはいつもにこにこしてて欲しいもの、昔っから映子は笑顔を絶やさない子だったもんね。そういうところに和也さんも惚れたんだと思うわ」
映子は彼女を一瞥して、また下を向いてため息をついた。
「美香、あなたと私が知合ったのって大学の頃でしょ、じゃあ、中学頃の私を知るわけないわよね」
「うーん、確かにその頃の話は、映子もあまり話さなかったし、私たちって今に手いっぱいで、過去の話をゆっくりすることなんてなかったもんね、まあ、それが当たり前かなあ、過去を振り返るなんてまだ早いしね、でも、私があなたと出会ったときは、今と変わらず優しくて、そう、いつも笑ってて、私とは正反対ってところね。まあ、人間そう変われるもんじゃないし、あなたはやっぱり昔からそうだったんじゃないかな」
彼女は優しく微笑んでみせて、それにつられて映子も頬をゆるめる。
「でもね、私、高校に入るまでは、にこりとも笑わない暗い子だった気がするの。なんでだろ、今までそんなことすっかり忘れてた。昔っから今の私が私である気がしてたの、でも、違う、今の私は本来の私ではないのよ。昔の私は今のようではなかったわ。でも、覚えてないの、あの頃一体何を考えて毎日をおくっていたか……そう、思い出さないといけない気がする、なぜかは分からないけど、あの頃の私を無性に思い出したくてたまらないの」
「ねえ、そんなこと思い出さなくていいじゃない、昔はやっぱり昔よ。今の映子が本当のあなた。それでいいと思うけどな」
沈んでいる映子をなだめるふうに美香は小声でゆっくりとそれを言った。
「ああ、おばあちゃんが呼んでるわ」
この日、映子らは、美香の姉のうちに来ていた。そのうちは、彼女のうちの隣接したところにある近い場所である。美香は姉から留守番を頼まれていたため、映子もそちらへお邪魔していた。その留守番する理由が、今、奥の部屋から、彼女のところまで聞こえてきた声の主のためである。彼女を一日中独りきりにしておくには忍びなかったのだろう。
「おばあちゃん、少しぼけてるみたいなのよ、すぐ人を呼ぶから本当手がかかっちゃう、姉さんに頼まれても留守番なんて引き受けるんじゃなかった、ちょっと待っててね」
そう言って彼女は側の扉から廊下へと出ていった。独り残された映子は急に正気に戻ったふうで、先程自分が喋りすぎた気がして、恥ずかしくなった。部屋が静かで、妙に緊張する。
「ああ、お友達かい?」
突然背後から話しかけられ、映子はとびあがらんばかりに驚いた。
「お邪魔してます」
こくりと映子が会釈すると、老人は機嫌よく笑い、ソファからクッションを取り、無造作にじゅうたんにおいて、演説でもするかのように行儀よくその上に腰をおろした。
「あんたはなんだか幸せそうな顔をしているね」「ああ、そうですか」
いきなりな問いに映子は怖ず怖ずと答える。美香はどこに行ったのか、と彼女はとてもそわそわし始めた。
「いやね、幸せなのはいいねえ、そう、私も幸福者でね、毎日が楽しいんだよ、いや、なのにね、なんで死ななくちゃいけないのかってねえ、仏様がそう決めたのかねえ。幸福者はずっと生きてていいと思うんだがね、違うのかねえ。そう、不幸なら死んでもいいんだ、いい事なけりゃ死んだほうがましさ、でも、私は幸福だよ、こんなに幸せなんだよ、生きていてもいいじゃないのかねえ、どう思うかい? 不幸者はどんどん死んでしまってさ、幸福者だけが生き残るっているのは。あんたもそう思うだろ? 私のいうことは間違ってないだろう、ん?」
映子は老人を凝視したまま微動だに出来なくなっていた。老人の表情は少しも幸福そうにはみえなかった。
映子の脳裏に色々なことが掛けめぐる。この老人はぼけてなんかいないのではないだろうか。繰り返しこんなことを言うのはとても淋しいからではないだろうか、独りきりで死ぬのが恐いのではないだろうか。
この部屋はさっきより静まり返っている気がした。呼吸することもおろそかになりそうだ。
「ごめん、映子、もう、おばあちゃん、こっちに来ないでよ、人が集まるところが好きなんだから、おばあちゃんの部屋はあっちでしょ、さあ、行きましょう」
美香は老人をゆっくりと立たせる。
さあ、行きましょう。その最後の美香の言葉に映子は身を震わせた。彼女は老人の背中をおし、部屋を出ていく、老人はもう喋っていなかったにもかかわらず、映子には彼女の後ろ姿が未だ語っているふうにみえた、彼女はこう歌う。さあ、いきましょう。さあ、生きましょう、生きるべき人間は生きましょう、いらない人間は、さあ、死にましょう。
薄暗い教室で、映子は鉛筆を机の上にコンパスのように突き立てた。
教室は霧がかかったふうに先がみえにくい。すりガラスがからわずかに光がさしていて、それによって黒板に書かれている文字をようやく見ることが出来る。
黒板は文字でおおい尽くされ真っ白だった。教師によって書き続けられる文字は黒板をはみ出してしまう、はみ出してもなお書き続けられる。そのカツカツと耳を刺激する単調な音、そして、さらさらという音が重なる。目の前の白いノートが黒くなる、黒くなる、黒くなる、次のページ、次のページ、どんどん黒くなっていく。周りを見渡すと皆同じだった。前を見る、下を見る、前を見る、下を見る。
人はどうやって他人と他人を見分けるのだろう。目の前に座っている人は全て同じに見えた。映子だけに意志があるように思える。じゃあ、意志のある自分だけが生きているのか。右を見る、左を見る。上を見る、下を見る。ノートは白いままだ、ずっと白くあり続ける。これが意志があるってこと? こんなことが自我? 映子のノートは黒くなる。やっぱり映子も死んでいた、彼女には意志はないのだ、前を見る、下を見る、前を見る、下を見る。
彼女は孤独ではなかった。そもそも孤独なんて言葉が存在するのだろうか。この世にそんなものがあるとは到底思えなかった。自分に似た他人は幾らでもいる、自分と似たような行動をする他人は幾らでもいる。映子は独りではなかった。いつも似た他人と一緒にいた。これは孤独ではない。きっと全ての人もそうだろう。孤独なんて言葉を使う人は自分が死んでいることに気づいてないのだ。少しの意地と、ほんの少しの自我。それは他人と他人の狭間を変化させることは出来ない。一定の距離を保ち、一定の距離をはかる。何をしても他人と自分とを狭めることも離すことも出来ない。微々たる意志を持ち、微々たる行動をし、これぞ我だと言う。皆死んでいるのに生きていると主張する。映子はそれをとても滑稽に思った。
(どうして私はここにいるのかしら。生まれる必要があったのかしら。これって、人間というクローンを増やしたに過ぎないんじゃない。私はこんな微々たる意志なんていらないのに)
そう口から出た瞬間に、映子は後悔していた。この後、いつもの母親の声を耳にしてしまうからだ。
(映子ちゃん、どうしたの? 何かあったの? 悩み事があるならいってみなさい、お母さん、相談のるから)
お仕着せがましい母親の声、母は頭がよく、逆に出来すぎた感がある、あまりにも正当な理由を言って押しつけることに、映子は嫌気がさしていた、そんなとってつけたふうに心配する口調も、嫌いだった。心配するふりをするのも母の役目なんだろう。なぜこんな無駄な母親の役についたのか疑問だった。そして、その役を将来自分が演じるつもりもなかった。
将来……映子は自分がそれを少しでも想像したことを笑った。彼女には将来など無かった。将来など必要なかった。自分に似た人間は幾らでもいる、その単純な人間が私の代わりに幾らでもこの馬鹿馬鹿しい生活を営んでくれるだろう。私は嫌だ。こんな生活はうんざりだ。
映子が押し黙っていると、それになれている母親は早々に別の話をする。
(先生に映子が怪我をしたので今から病院に連れていきますからって電話がかかってきたとき、本当に心臓がとまる思いがしたわ。もう、どんな大怪我をしたのかと思っちゃった。でも、よかった、そんなひどいものでなくて、何針ぬったんだっけ?)
(3針)
(そう、3針で、傷もそんなに目立つところじゃないしね。これから無造作にカッターを筆箱のなかに入れないようにね、本当に危ないんだから)
映子は指に触れた。
たった一本の指なのに全てを怪我したふうにぐるぐると白い包帯がまかれていた。どこを切ったのかもう分からないじゃないの。わずかな意志をみせた指がどれだか分からないじゃない。黒い黒いノートをすばらしく綺麗に染まらせた指がどれだか分からないじゃない。彼女はイライラして指をほおりだし、外を眺めた。
母親が運転する車は信号を曲がると川の側を走り続けた。どこまでも続く川。太陽の光がそれに反射し、星が降ってきたように輝いている。夜空のごとく輝く川は、映子を魅了させた。人は本来こういうところの住人じゃないかしら。映子はそう思う。人は漆黒の暗やみに沈み、未来的な光には近付けない。闇と光はともに存在するかにみえて、決して交わることは出来ないのだ。闇は眩しすぎて光をみることさえ出来ずにいる。ここに存在する闇はそのことを知っている、知っているからこそ、輝きを美しくみせることが出来るのだ。人間はそのことを知らない。無理に光に混じろうとする、自分は光の住人だと勘違いしている。人は選べない、場所を選べない、なのに光の住人と思い込んだままのんびりとした生活を送り、自己を主張する。その体は黒く染まっているのに白いと主張する。ああ、この闇に戻りたい、安住できるその場所に、ここにいるのはおかしい。
時間は深夜一時を回っていた。
空気は澄み、満天の夜空が見える。誰一人いないその場所で映子は夜空を見つめ、天にむかって腕をのばした。彼女は爽快な気分で笑みを浮かべる、風はとても心地よく彼女をむかい入れた。
場所は近かった。
映子は自宅から電車を乗り継ぎ、そして、深夜にはこの森へ訪れていた。彼女にはこの夜、ある目的、意志があったのだ。
目前にそびえたっている木々をまじまじと見つめてから、その中へ足を踏み込み、彼女はひたすらに歩き続けた。しばらくは土や草を踏みしめる音だけを聞く。
森の中を数分突き進んだ後、立ち止まって、一本の大木にもたれると夜空を見つめた。段々と呼吸が整ってくるのが分かる。綺麗だった、闇と光が素晴らしく調和していた。彼女は深呼吸をしてしばらく瞳を閉じ、そして、ポケットからカッターを取り出した。
ああ、自然に戻れる。映子は嬉しくなった。もし今この心臓が止まれば自分は本当の場所に帰れるのだ。こんな馬鹿な人間の足掻きを止めることができるのだ。皆には分からない、生きるということ、死ぬということが、どういうことなのか。私は死ぬ。本当に生きるために、自分を見つけるために。微々たる意志なんかではない本当の意志を持つために。
ゆっくりとその刃を出していく。カチカチカチと音が辺りに響く。意志の音がする。しかし、それに共鳴するように別の音が混じった。
さわさわさわ……。
映子は耳をこらした。何かが彼女の邪魔をしようとしていた。
(誰かが来た。誰かが来た。見たことのないやつが足を踏み入れた)
どうやら木々のお喋りが始まったらしい。
木々は夜になるとお喋りを始める。そんなことを書いていた、ある写真家の本を思い出した。映子もそれを今聞いているのだと思った。彼女はそれに耳を傾ける。さわさわさわ。途切れることなく会話は続く、そして、木々は彼女に語りかけてきた。
(何をしているんだ? なぜこんなところにいるんだ? ここはおまえのくる場所ではないはずだろ)
うっとうしげに映子は答える。
(そう、ここは私の場所ではないわ。でもここから本来の場所に戻るの。私は今まで間違ったところにいたから。皆にかよった意志を持ち何も見ようともしない、何も知らずに暮らす馬鹿な人間よ…私はそんな場所の住人でいたくないの)
(そう、ならここにいればいいさ。おまえはここの住人さ、いっしょに永遠に夜空を眺めていよう。風が心地よく体を抜けるよ。さっき感じただろうこの風を、この夜空の素晴らしさを、さあ、何か話して)
(いっしょにしないで。私はあなたたちとお喋りをしたいわけじゃないの、それに永遠にこの夜空を見つめていたいわけじゃないの、私は闇の住人になるのよ)
(さあ……どうかな。おまえは死にたいのか? それがどういうことか知っているのか? 死んでもそこの住人にはなれないだろうよ、おまえは独りきりになるんだ)
(あなたたちは私の邪魔をしたいわけね。私がどこかへ行ってしまうのがイヤなのね、悔しいんでしょう、そんなところに縛り付けられて動けないものね、かわいそうに)
(おまえもここから動けない。我々と会話したからね、もうほかの言葉は話せないよ。そう、木になるよ、おまえも動けなくなるよ、ここの住人になるよ。知らなかっただろう、これが、死ぬってことなのさ)
背筋がぞっとして、映子は身を震わせる。彼のその一言が彼女を我にかえらせた。
辺りを見渡すと、彼女は独りきりだった。本当に自分一人だった、独りだけ動いていた、独りだけ生きていた、他に誰も味方をしてくれる者も、彼女へ助言するものもいない、その木々に囲まれ……そう、映子は孤独だった。
あまりにも淋しくて、彼女は震えていた。自分に似かよったもの、馬鹿な人間、それさえも周りにいないことが恐かったのだ。
映子は立ち上がる。そして、ぶつぶつと呟きながら、ぐるぐると木の周りをひたすらに回った。どうしてこんなに恐いのだろう、私は孤独なのだろうか、私は本当の死の意味を知らなかったのだろうか。いや、そんなはずはない、そんなはずはないだろう。
平静を保とうと思いながらも彼女の気分は逆に深い沼に落ち込んでいくようであった。段々いてもたってもいられなくなり、我慢できそうにない。動かなければ、とにかく動かなければ。じっとしていたら自分まで木になってしまう気がするのだ。これ以上独りでいたくもなかった、まだ死の意味が分かってない自分はまだ死ぬには至らないだろう。そう思うなり、彼女は咄嗟に足を踏み出して、森の出口へと疾走した。
(どこに行くんだ? おまえは不要な人間なんだろ。死ななくていいのか? そのままでいいのか? 嫌ではないのか? 後悔はしないのか?)
不要な人間だって? 映子は眉をひそめた。確かに、代わりはいくらでもいる不要な人間かもしれない。だからといって、そんな理由で死ぬ覚悟をしたわけではなかった。死ぬのはある種神聖なことである。死ぬのは闇に戻るためだ、闇……闇って一体なんだろう。秩序……それって一体何?彼女の頭はますます混乱していった。
今は恐怖心のほうが大きかった。木々の声は久しぶりに捕らえた獲物に歓喜の声をあげている。その声は徐々に膨らんでいき、辺りにこだました。映子の足を、手を、目を、声を、全てをおおい尽くしてしまいそうなほど膨らんでいく。もうここから抜け出せない気がした。手をとられ、目をとられ、足をとられる。宙返りをして、彼女はそのまま地面に叩きつけられた。
さわさわさわ……。
さわさわさわ……。
それは歌声にかわり、全ての木々の合唱が始まった。
(不要な人間は死ななくていいのか? そのままでいいのか? 嫌ではないか? 後悔はないか?)
渾身の力で立ち上がり、傷だらけの足や手を気にせず、再び映子は走りだす。耳をふさぎ、目を閉じて、ただただ必死に走り続けた。
(私は不要な人間じゃない、私は生きるべき人間なのよ)
大声で彼女は叫び、彼らの声を遮断した。永遠に走り続ける、終わりはない、走りだした以上、彼女に休息はなかった。体の痛みも気にせず、永遠に走り続けた。
太陽は天高く位置し、地面をじりじりとやいていた。風は吹かず、辺りに人の声すらしなかった。映子は太陽に背を向けて、スコップを持ち、必死になって庭を掘っていた。
手はすでに真っ黒に汚れていた。まるで残飯でも漁ったかのようである。白いシャツも土がまいあがり黒くなっていた。
彼女が掘っていた場所は、木を植たところである。彼女はそれを掘りおこそうとしているのだ。しかし、植えてから数週間たった今では彼女独りでは簡単に堀りだせるものではない、それでも何が何でもそこを掘り、ようやく、どさりと木が倒れ、側の花をぐしゃりと踏み付けにした。
休むまもなく、次に彼女はスコップを木に叩きつけた。枝はなんとか折れて、ばらばらになった。幹も何度が叩きつけるうちに、折れやすい状態になった。彼女の力は尋常ではない。それを、庭の中央まで引きずり、油をかけ、新聞に火をつけて、そこへほおりこんだ。
じわじわと彼女の前で、それが燃えはじめ、そのうち大きな炎となった。その様子を、縁側に腰掛け、じっくりと眺める。無性に笑いたくなった。笑いを押し殺し彼女は含み笑う、それは心の奥底から湧き出るふうに笑った。
どうして、この木を燃やさなくてはならないのか、捨てるだけではいけないのか、彼女には分からなかった。しかし、今安堵感に充たされていることは確かである、跡形もなく焼けきるのを彼女は待ち望んでいた。
「映子、どうしたんだ、木がなくなっているじゃないか」
木の成長を毎日見守っていた夫は、家に戻ってくるなり、庭を指差し、声を張り上げた。
「ああ、木ね。うるさいの、どうしても音が耳につくから」
「うるさいって……何も音なんかしないじゃないか、映子、どうしたんだ、変な理屈なんていらないから、本当のことを言ってくれないか」
体をゆさゆさと揺らし、彼女は手に持っていた雑巾を乱暴に机にほおりなげた。
「だから言ったでしょ、うるさいのよ、声が聞こえるの、私を呼んでいるの、うるさいの、音がとてもうるさいの、いつも聞こえるの、私には聞こえるの」
苛立ちが頂点にきて彼女の体は小刻みに揺れる、椅子を伝わり、振動が床にも伝わるほどだった。
「ああ、分かった、分かったよ」
普通ではない彼女の状況を察したようで、夫は彼女をなだめる口調でそれを言い、もうそれ以上は何も言わなかった。少しばかり正気に戻って映子は悲痛な声をだす。
「ごめんなさい、でも、どうにも我慢できないのよ、分からないけど無性に耳につくの、何かが聞こえてくる気がするのよ」
机にうっつぶし、彼女は泣き続けた。
その夕方、映子は機嫌よく夕食の用意をしていた。夫が好きな魚を焼き、独特ないい匂いが部屋中にたちこめる。
「多恵ちゃん、いい匂いがするでしょう、そろそろ離乳食をやめて、ちゃんとした食事にしましょうね」
しっかと結び、上下に揺らしている多恵子の手を握りながら、映子は微笑した。
娘もその言葉がわかっているように思えた、嬉しそうに笑い声をあげている。映子は娘の顔をじっと見つめ、悲しそうな顔をして、言った。
「ごめんね、多恵ちゃん、お母さん、多恵ちゃんの木を焼いちゃったの、でも、今度は綺麗なお花が咲く種を植えるからね、多恵ちゃんがもう少し大きくなったら見られるからね」
ふと縁側に目をやると、こちらの様子をうかがうふうに黒猫が部屋の中を覗き込んでいた。
最初、外の暗さと同化してよく分からなかったのだけれど、その青い目の輝きで猫だと分かる。よく見ると、その猫は近所でときたまみかける、野良猫だった。
「多恵ちゃん、猫だよ、黒い猫がいるよ」
彼女の頭を少しおこし、縁側を指差した。多恵子はまだ何のことだか理解できず何の反応もなかった。
映子はお皿に少しばかりの魚をもって、縁側の扉を開き、そこにお皿をおいた。機敏な猫は、さっとどこかへ隠れたけれど、魚のいい匂いにつられて再びそこへ戻ってきた。こちらの様子を伺い、そして、魚を食らう。
その猫はさほど大きくなく、生まれて一年くらいの子猫だった。おいしそうに食べる猫の頭を恐る恐るなでると、猫は身を少し震わせたが、食べることに必死になっており、彼女の手を受け入れた。
映子はゆっくりと猫をだきあげ、部屋に連れて入り、多恵子の前に持っていった。
「多恵ちゃん、これが猫だよ、カワイイね」
娘が触れられない範囲で猫をみせ、彼女は一生懸命にその不可思議なものへと手をのばして、触れようとする。
「ダメだよ、猫ちゃんに触っちゃ、汚いからね」 急いで猫を表に出し、映子は扉を閉めた。再び猫は食べかけの餌を食らう、しかし、すぐに猫は泣き声をあげ始める。どうやらよほど飢えていたようで、再び餌の催促をしているようだった。娘もその変な声をあげる生きものに興味を感じたようで、目を見開いて見入っていた。
仕方なく映子は、もう一皿魚をもって猫に与えた。必死になって食らいつく子猫を見ていると、彼女はとてもかわいそうに思えてきた。
「あなたはどうして猫に生まれて来たのかしら、それもこんな綺麗な黒色に。前世で何か悪いことでもしたの、どうして人間じゃないの、それとも人間を選ばなかったのかしら、何を考えているの、どんな夢を見るの、生きていくのは恐くはない、私は嫌だな、猫なんて……あなたは幸福なんて感じないんじゃないかしら、ただ生きてるだけ、生きることしか考えてないのよ、それとも、そんなことすら考えられないの、自分が不幸だなんて考えもしないでしょうね、あなたがいなくなっても誰も気づかないんじゃない」
突然、猫はうろうろし、痙攣し始め、その場に倒れたまま動かなくなった。
映子は眼前に座ると、猫の頭をなでた。何度も何度もなでた。
「カワイイね、猫は」
部屋に戻ると、扉の鍵をかたく閉める。
「多恵ちゃん、猫ちゃんはね、おねんねしたみたいよ」
にっこりと娘の前で笑ってみせると、彼女は台所にたつ。猫のお陰でおかずが減っちゃったわ。そんな文句を言いつつ、丹念に手を洗うと、再び調理にいそしんだ。
二階の窓を開くなり、美香は大きな背伸びをした。
「何度見ても、ここからの風景はいいわね、庭も一望出来るし、景色もいい、私も結婚したらこういうところに住みたいわ」
美香は微笑み、映子を見つめる。
「何も言うことないでしょ? 映子幸せって顔してるもんなあ、多恵ちゃんも可愛いし、いいよなあ」
映子も微笑み、抱き抱えている娘をそっと揺すった。多恵子は自分の噂話をされているとも知らず、心地よさそうな顔で眠りについている。
美香は再び庭を見て、ある一点を指差した。
「ねえ、庭に木があったじゃない、あなたたちの幸福の木ってやつ」
「やだなあ、そんなんじゃないわよ、そう、あれはね、枯れちゃったのよ、最初から虫がついてたみたいね、残念。でも、今度は花にしようかって言ってるの、やっぱり花のほうが綺麗だから」
「じゃあ、あそこに、もう花の種を植えてるの?なんか土が盛り上がってるみたいだけど」
「ああ、あれはね……」
少しばかりトーンを落して、映子は続ける。
「あれは……お墓なの。最近、猫とか犬とかが、鼠とりの毒を食べちゃって死んじゃうのよ、知らないうちに部屋に入って来てね、食べちゃうのよ、なにかいい匂いがするのかしら、そう、可哀相だから埋めたのよ」
「犬とかまで部屋に入って来ちゃう?」
「うん、そう。最初は黒い猫だった、それは一番右のやつ」
美香は何度それを見ても、一体どれが一番右なのか、よく分からなかった。変なふうに秩序なくでこぼこと山がたくさん出来ていた。
「でもね、その黒い子猫、その毒を食べちゃう前からよく見かけたんだけど、そのときから弱ってたみたい、もしかしたらその猫は毒でやられたんじゃないかもしれない、庭で死んでいたのよ」
「ふーん、捨て猫は可哀相ね、自力で生きなきゃいけないし、捨てた人間は誰も構わないし」
「なんだかね、死にたがっていた気がするの、猫でも考えるんじゃないかしら、自分は不要な生きものなんだって、誰も構わないし、誰も自分が死んでも悲しんでくれない。生きている意味がないならいっそ死んでしまったほうがましだって、その存在理由を見つける手段さえも知らないものね、どうしようもないわ」
「まあ、映子らしくもない、恐ろしいことを言うのね」
「そうかしら、私は前からそんなことを考えていたけど。猫はね。存在理由を見つけだす手段を知らないけど、人間にはそれを知ることも、実行することも出来る。私は人間でよかったと思うわ、それだけで、人間と動物の価値が違ってくるんじゃないかしら」
「あー、分かった、何かの本でも読んだでしょ、それで感化されたのね、じゃあ、聞くけどさ、人間はどうやって存在理由を証明するの?」
「それは他人にどれだけ影響を与えることが出来るかで分かるの。自分が何かを言って他人を傷つけたとするでしょ。それは、自分っていう存在がないと出来ないことよね、感化されるっていうのもその中に入るけど、その比率が大きいのはやっぱり他人を傷つけるってことじゃないかしら、もし、誰かを殺したとしたら、一番大きいかもしれないわよね、その存在をこの場から消し去ってしまうってことは、いわば……そう、それだけ自分の存在の重要さを感じることが出来るんじゃないかしら」
「もう、映子、この話は止めようよ、何だか恐くなってきたよ、まあ、あなたはそんな妙な本に感化されないようにね、そんなことより、家庭のことを第一に考えなさい、こんな素敵な家庭を持っているんだから」
窓をそそくさと閉めて、美香はその話を打ち切った。
「慣れない話をしたから疲れちゃった、下にいって紅茶でも飲みましょう」
にっこりと笑みを浮かべ、映子は重たそうに腰をあげ、眠っている娘をベットのなかにそっと寝かせた。
彼女たちは階段を降りていく。しかしながら、映子の心は未だ喋り続けていた。でもね、美香、そういうことを考えていると音が聞こえないの、あの耳につくさわさわという音が聞こえてこないのよ、あの木が私の眠りを妨げないの。
その言葉を映子はぐいと飲み込んだ。
「それでね、おかしいの、映子ったら昼間に哲学めいたこと言ってんのよ、和也さん、なんか変な本、彼女に買ってきませんでした?」
「映子が? それはめずらしい、聞いてみたいもんだ、映子、その話、聞かせてくれよ」
「嫌よ、もう、美香、その話は止めよう、私も変なこと言ったって思ってるんだからさ」
その日の食卓は、夫と美香と映子と、そして、離乳食からようやく離れた多恵子とで過ごしていた。映子にとってとても楽しい時間であり、このうえない幸福を感じた。
神様は家庭の幸福を一番に思っている。そんな美香の言葉が今更ながら思い出された。それなら、神様は今の私たちを心から祝福してくれているのではないかしら。映子は思う。もう、あの音が私を邪魔することもないのよ。
「ねえ、もう一度、乾杯しましょうよ、今度はあなたたちの家庭の幸福に乾杯ね」
美香はワイングラスを持ち上げ微笑んだ。
映子は側で眠たそうにしている娘にもコップを持たせ、夫と映子は見つめあってグラスを持ち上げた。
「じゃあ、乾杯」
グラスがぶつかりあい、音を奏でる。多恵子の持つプラスティックの音もそれに加わり、心地よい調和がうまれた。
普段、酒類など口にしない映子は、その夜、今までにない安らかな眠りにつけそうだった。夫も映子より一足先に眠りについている。映子は最後に多恵子の寝顔を確認すると床についた。そして、ゆっくりと眠りの中へと落ちていった。
映子は走っている、永遠に走り続ける。一度始めた疾走に終わりはなかった、いくら疲れようと永遠に走り続ける。
「「「「私は不要な人間ではない、私は生きるべき人間なの。
映子が家に辿り着いたのは、もう明け方だった。空は白み、鳥たちは朝のあいさつを交わしていた。
映子の洋服は泥だらけで、手足はたくさんの切傷をつくっていた。音をたてずに自室に戻るとそのままベットの上に倒れこんだ。
ひどく疲れていた。
彼女は結構な距離を歩き、走っていたし、体は痛く、これ以上動けそうになかった。今から眠ったとしても後数時間で日常が始まってしまう。なのに、そのまま倒れこんだまま、死んだように彼女は眠ろうとしていた。記憶があいまいになっていくのが分かる、全てが断片的だ。今まで何をしていたのか、何を考えていたのか、全て忘れてしまいそうだった。何日間も眠っていなかった気がしていて、今やっとひさびさの安眠が訪れたようだった。
(簡単、そう、簡単なことよ、私は生きることしか考えなくていいの、ただ自分のことだけ、自分の幸福だけ考えればいいの、私は幸福のぬるま湯につかり、そのあたたかさを感じよう。
映子は眠りにつく。きっと忘れてしまうだろう、あの恐ろしさを、本当の死に触れてしまった自分を、あの木々の声を、きっと忘れる)
映子が眠っていたのは三時間ほどである。部屋に明るい日差しがさしこみ彼女を照らしだし、それを眩しげに見つめた。気分はやけにすっきりとしていた。その三時間で三日ほど眠っていたような気がするほど爽快だ。
ベットに腰掛けると、しばらくほうけた表情で床を眺めていた。いつもと変わらぬ朝だった。彼女の日常がまた始まる。
(おはよう、お母さん)
(あら、映子ちゃん、起きて大丈夫なの?いくら起こしても起きないし、体は傷だらけだし、お母さん、心配してたんだから)
最初母親の言葉の意味が分からず、服の裾をめくってみると、切傷、打ち身が数ヶ所出来ていることに気づいて、驚いた。
(あれ? いつのまに出来たのかしら?)
(いつのまにって、覚えがないの?)
(うん、体育のときに転んだけど、多分そのせいかな……まあ、いいや、そんなことより、お母さん、ご飯まだなの? 私、お腹すいちゃった、今日はたくさん食べていくからね、何だかとても気分がいいの、何でだろ、生まれたばかりの赤ちゃんって、こういう気分じゃないかしら)
映子は軽やかなステップを踏んで、洗面所へむかった。
母親は不思議そうに首を傾げる。いつの頃からか、映子は朝食も食べず、あいさつもせず、彼女の知らぬまに学校へ行くのが普通だった、なのに、今朝はあいさつをし、朝食を食べ、それに冗舌で、元気もいい。いつもとは明らかに違っていた。普段なら、母親が話し掛けても、二言三言喋るだけで、無視に近かったにもかかわらず。まあ、明るいことにこしたことはないわ。母親は楽天的に考え、映子にわけを尋ねるのをやめにした。
学校に行く途中、映子は様々なことを発見した。暖かく頬を包み込むふうにあたる空気。鳥たちの元気なさえずり。眠たそうにうなだれる犬。吠えている犬。塀の上で日にあたり気持ちよさそうな顔をする猫。太陽にあいさつをする花々。冗談を言って笑いころげる学生ら。難しそうな顔をして早足で歩くサラリーマン。そして、風になびく木々。葉と葉が交じりあい、微妙で特有な音をたたせている。
映子は立ち止まり、しばらくそれを見上げていた。しかし、急に背を向けて駆け出した。それは何かしらを思い出させようとしていた。でも、きっと思い出すことはないだろう、ずっと。映子は確信にみちた想いを感じていた。
ふと映子が目覚めたときは、まだ日が昇るまえだった。昨日は酒の勢いもあって床に入る時間が早かったし、ぐっすり眠れたこともあってか、いつもより早く目覚めたらしい。かといって、朝食の支度をするには早い時間帯だろう。
もう一度眠ろうと映子は、目を閉じた。
夢と現実のはざまをさまよい始める。しばらくすると、遠いところで会話が聞こえてきた。最初は小さく聞き取りにくいものであったが、徐々にテレビのボリュームをひねるごとく大きくなっていく。
(映子って、前からそんなんだった? なんだか別人みたいよ)
映子は制服をきている、自分が中学のころの友人との会話だ。
(うん、自分でも生まれたばかりの赤ん坊のように思うの、うーん、でも死を宣言されていた患者が実は軽い風邪だと分かったときの気分にも似てるかも)
(何、それ)
友人らは笑い、映子もつられて笑いだす。その声が頭のなかで響いていた。
そう、それを会話した日は、あの日のことだ。映子は十五才のころ感じた、すがすがしい朝のことを思い出していた。
その状況が頭のなかで繰り返し再現され、ああ、本当にあのときほど何もかも新鮮で、ことごとく自分を魅了させた日はないだろう、と思った。両親、友人さえも違ってみえた。
再び、映子は夢のなかへと押し込まれていき、彼女たちの声は遠くへ去りゆく。楽しい毎日、還らない楽しい日々。それが完全に過去のものである証明のように、その夢ももう戻ってこれない深淵へと奥深く沈められていった。
突然、ガツン、と頭に岩がぶつかったような衝撃を受け、眼前に閃光が走った。
映子は両手で頭を押さえ、ベットのなかで身悶えした。お酒のせいかしら、彼女はそう考え、薬を飲もうかとベットを抜け出した。
そのとき声が聞こえていた。一階へとむかおうとしていた映子の足はぴたりと止まる。再び、階段を上がり、二階へと戻っていく。
何を言っているのか分からないほど遠いところでひそひそと声が聞こえてきた。映子は耳をすまし、その会話を聞き取ろうとする。徐々に大きくなり、そう、それは聞き覚えのある声だった。
(不要な人間は死ななくていいのか?)
確かに聞こえた。
窓の向こう側から、呪文のようにその言葉を繰り返している。映子は思い切り窓を開き、それはあまりに勢いがよかったので、夫が娘が起きてしまうのではないかと思われるほどだった。
窓の向こうを見た瞬間、映子は呼吸が出来なくなった。目を大きく見開き、口をあんぐりと開けたままで、ショックのあまり一言も喋ることが出来なくなっていたのだ。
木が喋っていた。ゆさゆさと体を震わせている。それも、庭一面にそびえたち、全ての木々がその身を揺さ振っていた。見覚えのある光景、そう、確かに、この光景には見覚えがあった。
いつのころか、そう、あれは十五の頃だ。
さわさわと揺れる、群れをなし、夜空を隠すほどの木々が揺れる、風が吹き、体を揺らし、葉が上下に交わり会話を始めるのだ。特有の何かをすりあわせたようなその音、何度も聞いて忘れるはずもない声だ。
さわさわさわ……。
さわさわさわ……。
窓をあけた音に敏感に反応したのか、それとも彼女にまでその声が聞こえるのか、娘は、寝返りをうち、小さな泣き声をあげた。
映子には分からなかった。
なぜ多恵子を抱いて、階段を降りているのか、精神と肉体が分離してしまったようだが、そうではなかった、彼女はそうしなくては生きていけなかったのだ。そうすることでしか自分の生命を保てなかった、彼女には意志がある。
「私は、幸福なの、ずっと生き続けるの、私は生きるべき人間なの、死んではいない、ここに存在しているの」
浴槽には生暖かい湯がはってあった。
一度高々と神に捧げるふうに娘を持ち上げ、次に彼女は娘を浴槽に沈めた。神聖なる行為である。多恵子は静かだった。その口から小さな泡がもれ、手足を秩序なく動かし、そして、人形のように青白くなった。映子が手を離すと、静かに浴槽に浮いていた。
映子の表情は、満足げに歪んでいる。とても気分がよかった。彼女は歓喜に高ぶる胸をおさえ、階段を昇っていく。
もう木々の声は聞こえてこなかった。窓の外を覗くと、さっきまでそびえていた木々が、一本もはえていなかった。
私の勝ちね。そう思って、思い切り笑いたくなった、心から笑いたくて仕方なかったけれど彼女はそれを止める。眠っている夫を気遣ってのことである。
そのかわり、映子は心のなかで喜びの声をあげた。もう二度とあの木々の声に煩わされることなく、私は幸福な生活がおくれるだろう、と。私は開放された、私は存在を実証した、この上ない方法で、神様、聞こえていますか、私は生きています、ここに存在していますよ。
映子は布団のなかに体を滑り込ませ、横目で夫をみた。布団のぬくもりは羊水のようなぬるま湯で、心地よさそうに眠っている姿が、とても愛らしく、そして、幸福そうにみえた。
明日はあの十五才の頃を越える、今までにないすがすがしい朝を迎えることができるだろう。彼女は新しい自分を想像するだけで恍惚のなかに身をゆだねることができた。
そして、深い眠りにつくために、ゆっくりと目を閉じた。
- 終 -
(1992/12)*この作品の権利は井上かなめに既存します、無断転載は御遠慮下さい。