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モモ story by kaname inoue

「私は今の話を過去に起こったことのように話しましたね。でも、それを将来起こることとしてお話ししてもよかったんですよ」(エンデ著[モモ]より)

1, モモ

 野宿するしかなかったの、とモモは私に言った。当時17才だった彼女は、3年間バイトで貯めたお金と荷物をつめこみ、家族に手紙を残して、東京までやってきたのだった。彼女の目的は、アイドルKに逢うためである。
 一軒家の前に仁王立ちすると彼女は瞳を輝かせた。表札には「K」とかかれている。Kは現役の高校生であり、この家で両親と暮らしていた。彼女は周りを見渡し、ある一点を見定めた。住宅街に必ずあるような公園を、モモは寝床に決めたのだ。
 公園の周辺には、取り囲むふうに木々や芝生が植えられてある。彼女は、その一つの大木の根元に腰を下ろし、そこを野宿の場所に決定した。寝床の悪さなど彼女には関係のないことだった。もし雨が降ったならトンネルを使えばいいだろう。トンネルにはまるでお部屋の小窓のように可愛らしい三角や丸い穴があるではないか。暑い日には、ベンチを使えばいいだろう。冷たい石と風が涼しくしてくれるだろう。仕方なかった、と言うわりには、この状況を計算していたところもあったし、大きめの荷物の中には、虫除けや数枚のタオルや洗顔、着替えなどなど、彼女は首尾よく持参していたのだ。
 初夏であったため、夜は風があって涼しく、冷たいベンチは彼女をアイスクリームのように甘く冷たく包み込んでいた、と郷愁を思うように目を細めて彼女は付け足す。彼女は非常に幸福だった。この頃が一番至福を感じていた、とも言う。夜眠るときにはKの家の方角へ向かって、おやすみなさい、と頭を下げ、目覚めると、おはよう、と一礼することを欠かさない。なによりも、Kの側だったことが彼女を幸福にさせたのである。そう、そのベンチにすら彼は腰掛けたかもしれないのだ。その水飲み場でさえ彼が口付けたかもしれないだろう。彼の幼い頃からの記憶を、この道や公園の木々や砂場やブランコ、すべてが覚えている。
 毎朝Kはその公園の横を通り過ぎ、高校へ登校するため駅へと向かった。一週間その公園で野宿し続けていた彼女は、特等席から毎日Kを見ることが出来るのを幸せに感じた。神経質なくらい時間にきっちりしていた彼は、同じ時間にそこを通り過ぎ駅へ向かい、同じ時刻の電車に乗る。彼女は彼に気付かれないように公園からずっと駅までつけたり(家へ行くことはKの嫌がることだったのでそれがばれないように)、もしくは途中で待っていたり、駅で待っていたり、毎日違う状況から彼の姿を観察することを楽しんでいた。
 彼が電車に乗り込むと、彼女も一緒に電車に乗った。彼とともに学校へ登校するのだ。まるで自分の高校へ登校するようでもある。そして、彼が学校から帰る時刻を見計らって正門で待ち構え、仕事へ行く彼をまたつけていくのだ。
 彼女が言うには、校内へ入ってしまうことは、ファンでの間ではご法度らしい。彼女はそれを一ファンとして忠実に守っていた。他の数名のファンたちとともに。Kはきびしくそれをファンに言っていたようであるし、誰もが彼を愛していたのだから、彼の忠告をやぶってまで嫌われる行為はしなかった。むろん彼女もそうである。
 何十日もそうやっていると、さすがにKもファンの顔を覚える。彼女より先にそうやっていた女の子たちはもうすでに彼に顔や名前を知ってもらっていて、仕切っている女の子を呼び捨てにしたりしていて、まるで長年の友人か恋人かのようであり、モモは羨ましく思う。一週間ばかりの彼女はそこまで辿り着けないのである。ファンの間には階級があり(階級名称は、上、中、下(ジョウ、チュウ、ゲ))、まだ彼女は彼へ喋りかけるチャンスまで与えられなかったのである。
 ファンの上下関係は厳しく、規律を守らないために苛められたり、よりKに近付こうと目立った行動をして上に目を付けられ、いたずら電話(どこで調べるのか、ファンのネットワークはすごいらしい)を何度もされたり、追い出された子もいるらしいから、地道に彼女は規律を守るしかなかった。電車のなかですら、階級が下のものは彼へ近付くことすらできなかった。
 それでも彼女は満足だった。毎日、Kの顔をみることができるし、いつも彼と一体である気分を味わうことができるのである。規律は厳しかったが、それはジョウの子がいないところでは目を盗むことが出来たし、何度かモモはKに話しかけることができたのである。頑張って下さい、というのが精一杯であったのだけれど。彼を傷つけることを言うことは恐かったし、彼の別の側面を見ることがイヤだったし(不機嫌なときに彼はファンの子をブスだのバカだの言って罵倒するときがあった、そんな醜い姿は耐えられなかった)、自分の印象を悪くしたくなかったこともあり(そのため、彼女は毎朝に銭湯に通って髪の毛を丁寧に整えていたし、服もコインランドリーで洗濯したし、むろん着替えたし、フルーティな香りのするフレグランスをつけた)。そう、私は特別。そこらのファンとは違って一生彼の側にいるつもりなのだから。
 ただ、野宿のことは問題だった。その公園で暮らし始めてから、すでに一ヵ月が過ぎていた。彼女にとってはあっという間であったが、さすがに近隣の大人の白い目が気になり始める。そう、そのうち冬がきて屋根もない公園では寒さに耐えられなくなるだろうし、かといって、Kから離れて暮らすことは考えられなかったし…どうしよう、と彼女が悩んでいたとき、運が開いた。
 ついに彼女は、彼の近隣のアパートを借りるに至ったのだ。彼の家の前にある道路を挟んだ斜め前の古いアパートから引っ越しする者の発見し、すぐさま彼女はその部屋を申し込んだ。そう、この日のために残しておいたお金である。
 この家を借りる段になって、彼女は初めて家へ連絡を入れた。今、東京にいること、こちらで生活を始める決意をしたということ。親は彼女に無関心だった。親といっても五年前に両親を交通事故で亡くしたとき、引き取ってくれた姉夫婦だった。厳しくされることもなかったが、愛情も与えられなかった。そもそも彼女がいなくなってから、捜索しなかったほどであるから、このときも怒鳴りもしないし、戻ってこい、とも言わなかった。ただ一言、あなたがなぜ家出したか理由は聞かないけれど、自分の決めたことだから責任持ちなさい、と忠告しただけであった。
 よって部屋はすぐに契約が成立した。リフォームもままならない、薄汚い茶色い壁と畳であっても彼女は清々しい想いを抱擁し、窓を全開して、彼の甘い薫りのする空気を思いっきり吸い込む。部屋は、畳ばかりの四畳半と一畳ほどの小さな台所付きで、家具は何一つなかったけれど、それで充分だった。そう、それに窓を全開にすると眼前には…
「…もちろん彼の部屋が見えたの。夜になると彼の部屋の明かりが蛍の光のようにボオと浮かび上がって、とてもロマンチックだった。すぐに窓に双眼鏡を取り付け、部屋の電気を薄暗くして彼の部屋を覗き込むと、まるで自分の体が消え去って、彼の一部になっている気がした、呼吸さえ彼とともにしているほど。彼が今何をしているか全て分かるし、何を悩み、何を考えているか分かった。最初のうちは彼の部屋の電気が消えてからも眠れなくて、ずっと興奮してたっけ。そう、私だけよ、彼にあんなに近付けたのは、いくら好きだといっても彼女たちの出来ることは追っ掛けて、せいぜい顔を覚えてもらうだけ、彼の側で暮らすことを誰もしなかったもの」
 モモはそう言って、半ば皮肉っぽい、半ば哀しげな笑みを浮かべた。苺柄のグラスにつがれた麦茶を飲みほすと、話を続ける。
「…そのアパートを借りてからというもの、それまでの生活とはまるっきり違ってしまった。まず私は他の子みたく彼を追っかけることを全くしなくなった、バカバカしくなったの、一種の優越感かな。私は彼女たちが成しえなかった彼との一体感を独り占めしていたから、彼をがむしゃらに追っ掛け、必死になって名前や顔を覚えてもらおうとすることが恥ずかしいことに思えてきたのよ。以前は私もそうだったのにね。彼は必ず家には戻ってくるし、夏なんて窓は開きっぱなしよ、双眼鏡だと彼の一部始終見えるから。その頃の私は彼を見つめることだけに時間を費やしてたっけ…彼が笑うと私も笑うし、彼が悲しそうだと私も悲しい、彼が泣くと私も泣くの」
 モモは窓辺に腰を降ろした。彼女が表を眺めている後ろ姿は哀しげで、まるで今でもKを愛して止まず、窓の向こう側にはKがいるのではないか、と想像してしまう。モモ曰く、「とっくの昔の青春時代の話」である。モモはほほ笑み、舌足らずな口調でこう付け足した。「おかしいでしょ、今思うととてもくだらないもの」
 とっくの前に彼女は追っかけを止めてしまったし、私の知るかぎり、10年位前に活躍したKというアイドルは、もう存在しない。彼女がいう、おかしいでしょ、と言う言葉になんだか淋しさを感じて、私はどう返事をしたらいいのか分からなかった。
 どちからというと普段のモモは自分のことを語らず、人の話は熱心に耳を傾けるほうだった。けれどKに関しては、まるで物語を語るふうに喋り続けた。話はあっちこっちに飛ぶため、最初その話(物語)を聞いたときには意味が分からなかった。しかし、数珠のような珠を一個一個拾い上げ、つなぎ合わせると、膨大なモモの物語になるのだ。彼女曰く、昔好きだった人のくだらない話、であるのだが、その言葉の氾濫を受けとめることに混乱しつつ、同時に快感も味わっていた。
 モモは私より9つほど年上だったけれど、その年令差を全く感じさせなかった。身長は低く、体は華奢で、幼さが残る容姿のせいだろうか、センスやスタイルがいい上、綺麗な頬と艶のある長い髪のせいだろうか。逆に、彼女の落ち着いた雰囲気は、また年令不相応だった。私の友人のなかには彼女ほど大人しく、じっと人の言葉に耳を傾ける人はいない。さもすればその落ち着きぶりは彼女をもっと高年齢に見せることだろう。それゆえ、きっと彼女の年令を言いあてることが出来る人はいないと思われる。
 今、彼女は25才だった。正直なところ、その年令は推測である。彼女は正直に年令を言わなかったし、私が、25くらい? と聞いたら、まあ、そのくらいよ、と答えただけであるから、憶測として言えるだけである。それに一度Kと同じ歳だとも言っていた気がするので、その数字は全く違うわけでもないらしい。でも彼女がKを追っ掛けて上京してきた年令は正確だと思う。それは、高校生在学中であるから、現在25とするなら、もう八年ほど前のことだ。結局、彼女は田舎に戻らず、高校を中退して、そのまま東京に居続けているという。
 窓から涼しい風が吹き込んできた。私は風を正面から受け、目を細める。彼女は、愛らしい苺柄がちりばめれたキャミソールを着ていた。私は彼女に見惚れる。
 その露になった彼女の右腕の白い二の腕の肘に近い部分には「赤い蝶」が彫られていた。赤い縁取りで、リアルな蝶が羽を広げたふうに描かれ、その中側には水色を入れていた。体長五センチほどのそれは、まるで標本棚の蝶のようでもある。
 モモが言うに、もともとその場所には黒いあざがあったらしい。まさに神が生れながらにして罰を与えた醜いあざだった、と。実際夏でも腕を隠して過ごさねばならなかったし、それを他人に見せることは彼女の心に潜む黒い影を曝け出している気がして、街を歩くときなど彼女の背中は曲がり、目は伏せ見がちになった、と彼女は深いため息をついた。夏は一番嫌いな季節だった、とも。
 しかし、モモが21歳のとき、そのあざを取り、その真上に蝶のタトゥーをいれた。あざの消失とともに彼女の心のくすみも一辺に取れた気がしたとのことだ。蝶のごとく美しい羽を風に乗せどこへでも飛んでいけそうだ、と。むろん今では、蝶を露出する服装を好み、堂々としていた。
 私が初めて彼女に出会ったのは、友人につれられて、学校の帰りに、代官山へ立ち寄ったときのことだった。「マザー」というショップに入り、陳列された服を見ていたとき、モモ(もちろんこのときは彼女の名前や年令すら知らなかったのだけれども)は私の傍らに立ち、「そのワンピースはあなたに似合いそうね」と笑顔で話しかけてきた。彼女との初対面である。
 モモはそこの店員だった。ふくよかで艶のある唇が印象的で、色白で、長い黒髪を上でまとめあげており、切りそろえた前髪も大人っぽく優しげな印象を与えた。ショップの店員はみんなキレイだなあ、など考えて、数秒彼女に見惚れてしまう。きっと私の顔は間抜けなかんじで薄笑いしていたことだろう。後から友人が言うに、こういうショップは接客をしないから、ただ眺めやっていただけの私に、店員がわざわざ話しかけてきたことは珍しいことであったらしい。
「私、今日持ち合わせがないんですよ、友人の付き添いでちょっと見にきただけ」
 そう言って肩をすくめると、彼女は屈託なく笑ってワンピースを棚から取った。
「気に入ったんでしょ、試着するのはタダよ、着てみれば?」
 そのワンピースは私が前から欲しかったタイプだった。胸元はスクエア型に開き、小さなリボンがついていた。ネグリジェのような優しい質感があり、土色や空色の配色は夏っぽい薫りがする。買うつもりがないときや、お金をもってないときなど恐縮して試着とか出来ない私だったけれど、彼女の言葉で、着てみようか、と心が弾んだ。
「ほら、よく似合ってる」
 そう店員に言われて、私は有頂天になって裾を左右にヒラヒラと舞わせてみせた。
「あなたに似合うものはまた入荷すると思うし、夏物はまだ入荷してくるから、またのぞいてみてちょうだい」
 制服に着替え、ワンピースを彼女に手渡したとき、初めて彼女の腕に、タトゥーを発見した。それは美しい蝶である。
「かわいいですよね、その蝶、ホンモノですか?」
「そうよ、私がデザインして、入れてもらったの」
「私も入れたいなあ…でもデザイン能力ないし、既成のものを入れるのもつまんないし、考えちゃうって思ってたんだけど」
「じゃあ、私が考えてあげましょうか?」
「ホントに? でも…」
「もちろん、デザイン料なんてとったりしないわよ、あなたに似合いそうな、かわいいの考えておく」
 彼女はにっこりと笑い、私の背中をピアノでも引くように二度ほど叩いた。彼女の手は、そのショップの名前である「マザー」のとおり、母親が子供にするほど優しく感じ(記憶力の乏しい私が、ショップ名をすぐに覚えたのもそのせいである)、幼い頃の母の記憶を懐かしく思い出させた。
 ショップを出た後も名残惜しくなって私はそちらへ振り向いた。すると戸口のところに彼女が立っていて、愛想よくほほ笑み、手を振っていた。店頭の真っ白く洞窟ふうにデザインされた壁や丸い窓枠と、窓に吊されているビーズの彩りがキレイだったこと、彼女の頭上にある壁にガラスで埋め込まれたマザーという英語の文字が眩しく輝いて見えたことなど、それらを妙な気分で私は記憶する。
 次に私がそこへ訪れたのは、一週間後だった。それは忍耐強さの賜だった。不思議な引力をぐいぐい感じて、すぐ彼女に逢いたくなったし、週末になると新しい服が入荷しているかもと考え、私は気持ちを押さえきれなくなていたのだ。けど、お金もないのにショップへ行くのは気が引けたし、本当のところ、彼女に逢いたいという想いがばれてしまうのが、恥ずかしい気もしていた。
 その日、学校の帰りに私は代官山へ行った。ショップをそっと覗き込むなり、すぐに彼女と目があったことにびっくりした。まるで彼女は私がやってくるのを予期していたようであったから。彼女は入口まで出てきて、どうぞ座って、と店頭にディスプレイしてある黄色く丸いベンチに私を座らせると、彼女も横の赤いベンチに腰掛けた。
 彼女は以前会ったときのままの印象で、愛らしい笑顔を私に向けた。私のほうはというと緊張やらなにやらで、ぎこちなく笑っていた。飲まない? と彼女に差し出されたジュースを思い切り飲み干すと(甘く白濁した飲み物は私の胃のなかでぐるぐる渦巻く)、私は妙なぐあいに高揚した。
 次に私のしたことといえば、ハイ状態のまま彼女に自分の自己紹介的なことを喋りまくったことだった。後から考えると、こんな恥ずかしいことはないだろう。しかし、どうも好きになった人にはいち早く自分のことを知ってもらいたいという妙な欲求があるし、それにモモが聞き上手なせいだろうけど、ほぼ初対面であるにもかかわらず彼女に私の話をたくさん聞いてほしいという欲求であふれていた、よって、私は矢継ぎ早に喋り出していたのだ。
 その内容はというと、私はリカで、M高校に通っていて、兄弟はいない、親は共働き、という家庭の話や、友人らといるのは楽しい反面付き合いとか面倒におもうことがあって溶け込めないし、どうも彼女たちとは合わない…など、半ばグチである。
 私が喋っている間、彼女は真っすぐに彼女の黒い瞳を私に向けていて、熱心に聞き入っているようであった。ときに難しそうな顔をして、ときに愉快そうな表情をして、邪魔にならない程度に相づちをうって聞いていた。彼女は人の話に注意深く耳を傾ける人なのだ。彼女には人の話を聞き出す能力のようなものがある。それに不思議なことだけど、今までは下らないと思っていたものが、彼女に喋ることによって、それが心の奥にトゲのようにつまらせていたものだと気付く。
 親に干渉されないのは自由でいいし、独りきりだと面倒臭くなくていい、と思っていたのに、モモに、家に戻っても親はいない、と喋ったとき、それが自由というものではなく、深刻なほど悲しいことなのだと気付くのだった。もっと家族、もしくは誰かと一緒に居たかったのだと、誰かともっと時間を共有したかった。
 それらのことを私は夢中になって20分以上喋り続けていたのではないかと思う。話を切ったとき、半ば達成感と半ば虚しさが同居していた。あまりにも喋りすぎた気がして、彼女の反応が心配になってきたのだ。さすがに彼女も呆れてしまっただろうと考える。
 しばし無言で彼女を見つめていると、彼女は優しく笑って、「私はモモっていうの、また逢おう、私はこの近くに住んでいるから遊びにおいでよ」
「仕事は八時すぎには終わるし、ああ、休みは水曜日だから、そのときはうちのほうに来てかまわないから、ボロのアパートだからね、驚かないでよ、場所は…」
 そう言って彼女は、アパートの場所の説明をしてくれた。
「突然来てもらってもかまわないから、みんなそうだからさ」
 その「みんな」という言葉に私は嫌な気分がした。
 確かに、彼女のように屈託なく接する人なら友人も出来やすいだろう。私は付き合いが上手いほうじゃないから、彼女とは心が通じている気がして、唯一の友人になれそうな予感をしていたのに、彼女にとってはそうではなかったと嫉妬を覚えずにはいられなかったのだ。家でさえ、安易に誰にでも教えてしまう部類のものだと憂欝になった。
 それでもモモは私にとって親愛なる友人に違いなかった。もし、私がモモへ「私たちは親友だ」と言ったなら、即座にモモは、「モチロン」と答えてくれるだろう。
 突然でいいと言ったものだから、私は言葉どおり突然彼女のうちを訪ねた。
 彼女の住むアパートの外観は確かにキレイとは言えないもので、傾いていそうな木造の古いアパートだった。共同玄関があって、通路には共同トイレ(使われてないっぽい)と共同らしい洗濯機(これも汚くて使う気にはならない)が置いてある。彼女のドアに辿り着き、扉を叩く(チャイムがなかった)。返事がないため私はドアノブをひねってみると、不用心にも鍵は開いていた。どうしようか、表で待っていようか、と考えつつも、遠慮なくあがりむことにした。
 モモのうちに来る前から楽しみにしていたことがあった。それは彼女のインテリアである。雑誌で紹介されている部屋のインテリア特集などを見るたびに、その優れた感覚に羨ましい気分になったものだ。そしておしゃれな彼女の部屋は、まさしくそんなかんじではないかと思ったのである。
 一番彼女らしいと想像していたのは、かわいいグッズにかこまれてた部屋である。彼女の好きな雑貨で溢れているような…彼女が人に親切であるように、モノさえも大切にしてて、大事な雑貨を捨てれなくて悩んでしまう…そんなかんじだ。
 しかしながら、私が彼女の部屋をのぞいたとき、良い意味で期待を裏切られることとなった。モモの部屋には何もなかったのだ。
 むろん、それは大げさである。つまりシンプルなのだ。七帖ほどの台所兼部屋で、白い壁に白い敷物をひいた床、ベットもなく、赤い色をした木の机がすみっこに置いてあり、その上には一輪挿しが置いてあった。一輪挿しには、一輪の白い花(何の花かは知らないが小さくてかわいいもの。後に知ることになるが、この小さな花は途切れることなくいつも部屋に飾られている)が、この部屋に透明感を与えている。
 そして…赤い冷蔵庫。このとき私が疑問に思ったのが、冷蔵庫は台所にもあることだった。小さな白い冷蔵庫が玄関を入って側ある台所の板間になっているところに置いてある。流しの横にあることもあって、この冷蔵庫は実用的に使われていることが分かる。
 しかし、部屋の角に置いてある、赤いワンドアの冷蔵庫。最初は普通の棚かと思ったのだけれど、よく見るとその堅い質感から冷蔵庫だと分かる。棚と見間違えそうになったのは、その艶やかな真っ赤な色と、正面に大きく描かれた白と黒の縁取りの蝶の絵のせいある。この絵は、モモが描いたものに違いないだろう。彼女の腕にある赤い蝶と絵柄は違うものの、似た印象を与えるからである。そして、これも彼女の考えたデザインなのだろう、その蝶(冷蔵庫)には、頑丈に鎖が二重にまかれてあった。
 その置物は、不思議な衝撃を私に与えたのだった。蝶が描かれているという印象に止まらず、鎖が蝶を捕らえているようで、つまり、蜘の巣が蝶を捕らえているのだ。
「あら、リカちゃん、来てたの」
 背後から声がして、私は驚いて彼女へ振り返った。それがオーバーだったようで彼女は愉快げに笑いながら部屋へ入ってきた。
「ごめんね、ちょっとビールを買いに行ってたの。飲む? ああ、未成年だね、でも、今日くらいいいか。私の記念日だからさ」
「誕生日とか?」
 モモの言葉で、私はすっかり冷蔵庫のことを聞きそびれてしまった。このシンプルな部屋で際立つ蝶のことを…いや、蝶のことだけでなく、この小さな白い花だって暗めの蛍光灯の下では虹色に輝くようだし…。シンプルな部屋だけに、置物一つ一つに意味があるような気がしてくる。
「いや、そうじゃなくてね」。何かが始まる予感がして私は熱心に耳を傾けたけれど、モモは言いにくそうにしていた。「私が東京へやってきた日なの」
「転校かなにか?」
 いや、そうじゃなく…、とモモは苦笑いした。「私は高校を中退して東京へやってきたの…まあ、別の言い方すれば、東京に居続けたために高校を中退せざるおえなくなったんだけど」
 私は混乱し始める。いや、混乱どころかワクワクしていた。不透明で謎のある過去を持つほうがモモらしく思えたのだった。
「あなたがいると嬉しいの。泊まっていかない?」
 むろん私はモモの勧めるままに頷いた。彼女が家に連絡するようにと言ったため一応電話をしたら、両親とも戻っていなかったので留守番電話に、今日は友人のところに泊まります、とだけ吹き込み、モモにはOKだったと言った。
 私は彼女の秘密を知りたかった、しかし、単刀直入に尋ねてしまっては彼女に嫌われてしまうのではないかと心配し、そのうちに、また自分のことばかりをべらべらと喋ってしまう。その内容は…全てにおいて熱中できず、熱中している人を見ると羨ましい反面、バカバカしくも感じる。結局グチばかりだ。後になって私は反省する。
 モモは、相づちをうちながら注意深く耳を傾けてくれた。私は喋りすぎた気恥ずかしさに、「ねえ、今日は何の記念日なの?」と結局単刀直入に尋ねてしまったのである。私たちはお互いビール缶を2本ずつ空けていて、私はほんのり体が宙に浮いている気分であり、モモは赤い顔をしてワインを手に取り、その栓と格闘しているときだった。
「そう…どうして高校を中退したの?」
 モモはそれに答えず、苦笑ばかりしていた。彼女はグラスを私に手渡し、その中程まで赤いワインを注いだ。薄暗いなかでも水面は反射して輝き、グラスのなかをのぞきこむと、海のなかに潜っていく気分になった。
 なぜか私は一気飲みの勝負でもしているごとく、ぐいぐいと最後まで飲み干していた。数分もしてくると目の前が海面に浮かんでいるふうにユラユラする。
「モモの名前の由来は何だと思う?」
 倒れそうになるワインを受けとめ、アルコールで覚束ない瞳のまま彼女を凝視する。
「母が、『モモ』のお話から取ったものらしいの、どんなのか知ってる?」
「昔に映画を観た気がするけど忘れちゃった、どんな内容だっけ?」
「さあ」とモモは笑う。「私も知らない。そういう意味で付けられるとなんだか恐くなって、逆に読むのが恐いくらい。でも母はこう言ってた。モモは盗まれた時間を取り返すために時間泥棒に立ち向かう勇気ある少女なんだって。どこかで聞いたんだけど、どうやらモモは素敵な時間王に恋をしてしまうらしいの。結局、私は母が望んでいた勇気なんてなかった。母はどう思ってるのかな。私は恋のために全てを投げ出して逃げてしまったんだから…」
 話は途中からとぎれとぎれになり、最後のほうはため息をつくように喋っていた。
 私はというと、滅多に飲まないのにこんなときだけなぜか歯止めなく飲んでしまっている。モモの話を私は最後まで聞いていたのかすら不明だった。
 私は、モモが時間王の元へ逃げ出す光景を頭のなかでグルグルと描いていた。恋をしてはいけない同士なら駈け落ちしかないだろう、という私の安直な発想のため、彼女の話などそっちのけで、そんなストーリーが私なかで勝手に作られていたのだ。モモと彼はどこかへ旅立つだろう、世界の端から端へ…ときに、死のうか、なんて言ってみたりするんだ、薬をお互いの手のひらにのせてみたりして、永遠に一緒だ、とかドラマみたく言ったりして…彼らは幸福だろうか、とか色々。
 気が付くと布団の中にいた。真っ暗だったはずの空は明るく、窓からは太陽の光が私の顔へと差し込んでいた。私が目覚めると、モモは、ちょうどよかった今起こそうと思ったとこ、学校があるでしょ、と私に優しく語りかけた。
「また遊びにきてよ、そうだ、リカちゃんって何が好き? 食物でさ」
「カレーかな、なんで?」
 ふふふっとモモは意味ありげに笑う。
「じゃあ、今度来るとき電話して。カレー作っておくよ」
 2日後に電話をしてからモモのところへ行くと、彼女は本当に私の好物であるカレーを作っていた。
「本当に作ってくれてる」と、私は感動して(親でさえ手を抜く食事をこんなに丁寧に作ってくれたことが初めての経験であったので本当に感動して)嬉しい悲鳴をあげ、すでにカレーがセッティングされてあるテーブルの脇に滑り込んだ。
 彼女が言うに、普通のカレー粉に調味料などを加えて作ったものらしい。市販されているカレーの味とは違い、まったりとして柔らかい味がする。私が、「とってもおいしい」と二杯もお代わりすると彼女はとても満足げな表情で私をずっと見ていて、その眼差しが熱心な一直線だったため私は照れ臭そうに笑った。「誰かに喜んで食べてもらえることは私の幸せよ」
 モモは、料理が得意ではないと言う。しかし、誰かが食べてくれると作る張り合いがあるし、その瞬間が私を最高の料理人にする、と。私は彼女の気持ちを大事にしたかった。 次にモモのうちに行ったのは2日ほど日をあけてからだった。それまでは毎日行っていたのだけれども。その間も彼女はひたすらにカレーを作り続けていた。たくさん作るものだから2日間は余裕でそれが保つ。もともと私は食事に無頓着な性格だったため、別に朝晩同じものを食べようがどうでもよかったのだ。ただ多少の飽きをかんじつつも。
 しかし、その数日後に彼女のところへ行ったら再びカレーが出てきたときは、正直おどろいた。このところカレーしか食べてない感覚なのである。本音では、またカレー? と皮肉っぽく心の中で叫んでいたのだ。
「今度はシーフードカレーにしてみたの、同じカレーでも材料によって味をかえなきゃいけないみたい、おもしろいね」
 モモのカレーに対する集中力(執着力)はパワーアップしていた。台所には料理の本が三冊も置かれてあったし、以前にはなかった、カレーパウダー各種、スパイス各種、ハーブ、ココナッツなどなど十種類くらい、が取り揃えてあった。私はその一つを手にとってみる。「ガラムマサラ。カレーのスパイスです、最後に加えると一段と風味豊かに仕上がります…」などなど、その文字をまるで穴のなかを覗き込むふうに見つめて元に戻し、無意味な相づちをうった。
「タイカレーとか大丈夫? とても辛いの、次に挑戦してみようと思うんだけど」
 モモは満足そうに笑って私を見る。私がカレーしか食べないと思っているのだろうか。それでも私は、「辛いのは大好き」と答えた。「そうだと思った」と彼女は笑う。
 カレーの具合を覗き込んだため、熱気のせいで彼女の鼻や頬は汗ばんでいた。白い頬がほんのり赤くなっている、丸い目を三日月のようにして笑いかけられると、彼女の作るタイカレーというやつも食べてみたくなったりした。
 こんなに買い込んだりして、モモは凝り性なのだろう。次から次へとアイディアが浮かんでそれを一つ一つこなしていく姿は芸術家のようだとも考える。同じカレーであっても何かしら変化がつくなら飽きることもないし、せっかく作ってくれているのにそれを無理に中断させるのは忍びなかったのだ。
 テーブルに置かれたそれを見たとき、多少げんなり感がありつつも気を取り直し、スプーンを手にしたまま両手を合わせ馬鹿丁寧にお辞儀をした。「いただきます」
 その翌日に早速食べることとなった、タイカレーというのは、初めて見るのだけれど黄色くどろどろしたものだった。
「今日は黄色いやつ、今度は赤いやつを作ってみるから楽しみにしてて」
 私が、おいしい、と感嘆の声をあげたときモモは満足げにそう言った。確かにその初めて食べたものは、不思議な辛さと触感で私を楽しませた。と同時に、次は、赤いやつか、と心の中で呟いていた。赤くても黄色くてもカレーはカレーだ、と。それはため息混じりであったことに自分でも驚く。次に赤いのを食べたとしたら私は一ヵ月以上もカレーばかり、ほぼ毎日食べ続けていることになるだろう。しかし、拒否するという考えは全く浮かばなかった。
 腕にある赤い蝶は未だに私を魅了してやまなかった。彼女がデザインしてくれた蝶を私の腕に入れることを夢想しては楽しんでいたし、お金が入ったら彼女のいるショップの服を買うこと、そうだ、モモの勧めてくれたものにしよう。
 毎日モモに逢って、どうでもいい話ばかりして、それが至福に思うことが不思議にすら思った。そして、いつも側にある赤い冷蔵庫は、「至福の付け足し」である気がした。その箱は、冷たい質感とは対照的に、とても暖かみを感じる。赤い冷蔵庫がモモの実体となり、いつもモモと一緒に過ごしている気分にさせた。
 気になるモモが東京へ来た経緯だが、時間王に恋をして東京にやってきたとするなら、大変な理由でその彼と別れてしまったんだろう。そうやって空想して楽しんでいたことが、彼女に本音を聞けなかった理由の一つでもある。浮遊感があり、無色な存在である彼女には、どこからやってきて、どういう生活していたのか誰も知らず、当然秘密もある。未知への想像が、彼女をより高尚させ、好奇心をかきたて高揚させもしたのだった。
 モモは、エンデ作の『モモ』を読んだことがないと言ったけれど、私は近々その物語を読んでみようと思っていた。彼女から彼女の過去を聞き出すより、この物語を読むことによってモモの過去を知ろうとする、(妙な)名案が私には浮かんだのだった。
 「タイカレーの赤いヤツ」を食べる頃、私は、「玉子料理も好きなんだよ」と彼女に言ったみた。玉子料理ならかなりの調理方法があるから、食事に飽きを感じて悩むこともないだろうし。「でもカレーが一番に好きなんだけどね」
 彼女が寂しげな顔をして押し黙っている数秒の間に、私は忍びなくなってそう答える。そのころ彼女はタイ料理の調味料をカンペキに取り揃えていたのだから。
 次の日の夜、彼女のところを訪ね、ドアを開けた瞬間に、良い匂いが鼻をくすぐった。「ちょうどいいタイミング、今、親子丼を作ったところ」
 本当においしそうにそれはご飯の上にのせられた。これなら毎日食べてもいいかもしれない、なんて考える。
「次は、他人丼を作るね、東京ではなんて言う名前なのかな、親子は、鶏と玉子でしょ、他人は豚を使うのよ」
 モモは楽しそうだった。私も楽しくなる。「今夜は来ないかと思った、だって約束してるわけじゃないもんね。毎日うちに来てたんじゃお母さんも心配するでしょう」
 そう彼女が言ったとき、私の胸は苦しくなる。両親なんて私が独りで食事していると思っているというのに。
「うちの親は心配なんかしないよ」
 そういうとモモは淋しそうに笑った。
「そんなことない、私はあなたが好きよ、でもそれ以上にお母さんはあなたのことが好きなはずよ」
 モモの言う言葉が本当であったならと私は思った。本当にお母さんが私のことを好きであってくれたらいいのに、と私は願っていた。モモがそう言ってくれるなら、私もお母さんのことが好きになれそうだ、いや、そもそもお母さんを嫌いになったことなんてあったろうか。 モモの蝶が浮かびあがる。蝶は神聖で美しい生きものだ、と私は思った。正直なところ、以前は虫の一種としか見てなかったのに。穏やかな感覚に充たされ私は目を閉じる。
 そのことをモモに伝えると、いつものように彼女は微笑んで、こんな話を始めた。
 昔の人は、人間が死んでしまうと魂分体重が軽くなると考えてた。死体を体重計にのせてみたら、実際軽くなっていた。本当は水分が蒸発したりして軽くなるらしいが、昔の人は、軽くなるのは魂が抜けたせいだと思っていたのだ。
 そして、モモはこうも言う。男がある山小屋へ訪れたとき、その中に若い女の死体が放置されてあるのを見付けた。すると、その遺体の口から次々と蝶が出てきて、小屋のなかが蝶でいっぱいになった、という。モモにとては、それは、恐怖より、神聖にかんじたらしい。
「蝶は人の魂。身近で、愛すべき美しいものよ。だから好き」
 最後にモモはそう付け足した。頬が赤らみ、瞳は恍惚感に潤んでいる。
 モモの話を聞いているうちに、私は蝶が身近…どころか不気味な気さえしていた。単なる観賞物から、意味ある生きものに転じはしたものの、あのフワフワしたかんじが魂なのだと想像すると、正直、気持ちいいものではない。しかし、私は出来るかぎり彼女の感覚を共有したいという衝動にかられていたし、彼女が心地良い、神聖だ、と言っているものを、分からないと投げ出してしまうのは耐えられなかったのだ。感覚で分からないなら、頭のなかで理解しようと心がける。
 そう、モモはきっと過去に、身近な人、もしくは飼猫とか、が死んでしまったに違いない。愛すべきものの死。きっと魂がこの世に残っていてほしいと思うだろう。私はと言うと、親は健在だし、動物を飼ったこともないし、祖父は亡くなったが、もともと遠い県に住んでいて馴染みはなかったため何とも感じなかったし。愛すべきものの死。私は口のなかで呪文のように唱えた。
「ステキね」
 私は出来るだけ感情を込めて言った。不思議なことに口に出すことによってそれは真実になったのだ。
「モモ、早くデザイン考えてよ」
 モモは色鉛筆とスケッチブックを取り出してきて、床に寝転がると、蝶の絵を描き始めた。彼女は芸術家の顔になる。
 いくつかデザインしたものの一つに大きく丸を書いた。その蝶はモモの腕にあるものとは違ったデザインだった。モモはこう説明する。「私のはリアルに蝶を描いたんだけど、リカのは、蝶をデフォルメしてみたの、赤色の太い縁取りに、ただ中をピンクで塗り潰す、小さくて丸くて、ポップなかんじ」
 丸く可愛い蝶は、モモのとは対照的に感じた。モモのも全くリアルに描かれているわけではないのだけれど、違った個性といったかんじだろうか。
 そのページを破って私に手渡した。私はその蝶をライトの光に照らして数分眺める。それはいつまでも見飽きることはなかった。
 次にモモのアパートを訪ねたとき、彼女はプレーンオムレツを完璧にマスターしていた。薄く黄色い膜の上にふわふわと白い雲が浮かんでいるというかんじ。プリンのように振動でぷるぷると動くのだ。私はその感触に感動した。口のなかでとろけるようだった。
 食事をすませた後、私は床で寝転がり雑誌を読んでいた。モモの部屋ではいつもラジオか音楽がかけてあった。だいたい環境音楽の類の曲が流れてあった。音楽がかかってないのではないかと思ってしまうほど静かな曲か、女性ボーカルのものである。
 ある日、ファッション誌のインテリア紹介のページを開いて、私はモモにそれを見せた。「こういうのは興味ないの?」
 つまりモモの部屋を、こういう雑誌に載せてはどうか、と勧めてみたわけである。絶対に掲載される類のものだ、と私は確信していたのだ。しかし、モモの反応は鈍かった。
「私はそういうのには興味ないの、部屋を他人にみせるのはちょっとね」
「そうなの、残念」と、返答しながらも、ふとあることを思い出した。
 私とモモが知合ってから三ヵ月以上が過ぎようとしていた。この1ヵ月は毎日のように来ているから、とても長い時間モモと過ごしていることになる。
 最初モモと出会ったとき、モモは私にこう盛らした。「みんなもそうだからさ」。そう、モモはまるで友人が何人もこの家を出入りしている口調で、「みんな」と私が彼女のところへ訪ねることへの安心感を誘ったのである。本当のところ、私は、非常に嫉妬を感じてそれを聞いたっけ。
 しかし、この三ヵ月間、私が知るかぎり、モモの友人がこの部屋へやってくることは一度もなかった。じゃあ、「みんな」とは?
 そのことを問うとモモは恥ずかしげな顔をした。
「そんなこと言った? やだなあ。どっちかっていうと私は人見知りするほうなの。友人と呼べるようになるまでには時間がかかっちゃうほう。前は友人らを部屋に呼んだりしたこともあったけど、今は全然。ほら、みんなあちこち見て回ったりするじゃない、あまりうろうろされたり、触れられたりするのがイヤなのよ」モモは苦笑した後、慌てて付け足した。「ああ、あなたは別だから、特別」
 その彼女の告白によって、私の心はまさしく霧が晴れた。不気味なほど笑ってモモを見つめ、つられたふうに彼女も笑った。
 しかし、モモは真剣な表情になると、まっすぐに私を見つめた。私が知りたいと思ったときには彼女は決して言わないのに、私がどうでもよくなっているときにかぎって、いよいよ彼女は喋りだすのだ。
「初めて東京に来た日、私は公園で野宿をしたの。仕方がなかったのよ、そうするしかなかった…」
 高校を中退してまでここに居続けたのには理由があるの、と彼女は続ける。この出だしは、長い物語のほんの序章だった。それを示すふうに、モモは冷蔵庫からビールを取り出し、グラスのそれを注いで私に手渡した。
 しばし私たちは、無言のままビールを呑んでいた。夏の暑い夜にはその冷たさはとても心地よく、頬にそれをあてた後、ジュース感覚で飲んでしまいそうになった。しかし、以前のようにモモの話をどこまで聞いたか分からない、なんてことにならないよう注意する必要があった。モモの話は膨大に膨らみ長くなるだろうと予想したからだ。私は一口だけ流し込み、彼女の物語を待った。
 ゆっくりとモモは始めた。まるで果てしない物語である。
「…でも、そこでの生活が一番幸せだったのかもしれない」
 そう言ってモモは言葉を区切った。
 私はこのとき初めて「K」というアイドルの存在を知った。モモはあまり性をかんじさせないため、男の存在がミスマッチな気がしたし、それが私の全く知らないしかもアイドルのKという男だし、彼女の話は、まさしく物語であり、現実性のない出来事のようであったのだ。
 その物語の大まかな経緯はこんなかんじだった。
『モモは、3年もの間、Kの家の前にあるその四畳半のボロアパートで生活していた。Kが学校へ行っている間などはバイトを始めて生活費にあてていたらしい、むろん、そこで暮らすことの覚悟を決めたとき彼女は両親へ連絡して、その意志を伝えたようである。彼女の決意が堅いこともあって、それを承知したとのことだった。
 3年というと、彼女はすでに20歳になっていた。同じく、Kも20歳になっていたのだった。しかし、20歳を迎えたKの元には仕事がこなくなっていた。15才のときその世界に入った彼は、ドラマなどに出演し瞬く間に人気が出た。モモが彼を好きになったのもこのときである。しかし、20からの彼の落ち方は流れ星のごとく早かったと言う。21才になるころ、彼の名前を覚えているものは誰もいなかったといっても過言ではない。一番にそれを感じていたのはK自身で、彼は自暴自棄になってしまって、仕事すら真面目にせず、すっぽかしたようだ。もともと頂点に達していたわけでもなかったし、彼の予備軍は数人用意されていたのだから、その傍若無人な態度が彼の人気を落とすことを加速させたのだ。
「もともとアイドルなんてものになりたくなかったんだ。高校を卒業したらきっぱり止めて大学に進学するはずだったのに、どうして居続けたりなんかしたんだろう。とても後悔してる。今ではどこかへ逃げ出したいと思うだけさ」
 Kがそう落胆して言ったのをモモは目の前で聞いたらしい。Kの目元には隈が出来ていて、体はだらりとして、生気が感じられなかった。以前、彼から発散されていたオーラはどこにもなかった。その数日後、事務所に止めることを報告をした日、「もう何もない」と彼はかなり酔っ払い真夜中の道端に膝をついた。そのときもモモは彼の側にいたようである。以前何人もいた取り巻きもとっくに姿はなかった。
 その翌日、モモも彼の元を去ったとのことだった。21才のことである。
 あっという間の四年間であり、無駄なほど長い4年間でもあった。20歳を越えていたことに彼女自身気付かなかったほどで、気付いたときには何も残っていないことに愕然とした。
 モモは自分を変えるために腕にある黒いあざをとることにした。ずっと以前から付きまとう心の黒い影を。そして、昔は興味があったデザインの勉強も始めることにした。専門学校の講義に参加したのだ。好きなことに熱中する毎日は彼女に大いなる変化を与えた。他人(つまりKに)ばかり与えていた栄養を、自分自身に与え始めたせいだろう。性格もオープンになり、友人も多く作り、冗舌になった。腕に、蝶のタトゥーを入れる頃、初めて東京に来たときの自分とは、全く違う自分になっていたんだ、と彼女は感慨深く言う。蝶のように風に乗ってどこまでもいけそうな気がしたんだ。』
 私はモモの手を強く握り締めていた。彼女も握り返し、私たちは数分間、無言のままうつむいていた。そして、モモの長い物語は終わった。


2, K

 冬を目前にした肌寒い頃、相変わらず私はモモのアパートに遊びにいっていた。私の腕には、モモがデザインした蝶のタトゥーが入っていた。夏になって、それに合わせて着るのが今から楽しみでならない。
 ある夜、家へいくとモモはまだ戻ってなく、テーブルの上に、予感していたごとく、食べてね、というメッセージと、サンドイッチが用意されてあった。ほんのり焼いたパンの間に、玉子をマヨネーズであえたもの、ツナやサラダを挟んだもの、など。その側に丸いガラスの器があり、きれいにサラダが盛り付けてあった。もちろんサラダの周りには、ちゃんとゆで卵をスライスしたものが乗せてある。いつまで玉子が続くのだろう。台所の棚の上には玉子料理の本が数冊重ねて置かれてあった。それは丹念に読まれ使われた本で、ページがいくつも折れていたりする。私はかまわずサンドイッチを口にほおりこんだ。もう日常に玉子が使われているため、わざわざ驚いたりすることもなくなっていた。すっかり平らげてしまうと、窓辺に腰掛け、買っておいた雑誌を読み始めた。
 段々と部屋が寒くなっていくので、私は電気ストーブを付けた。そう、さっきまで雑誌に熱中していて気付かなかったのだが、電気ストーブの水蒸気がシュウシュウと鳴っていたので気にとめなかったのだけれども、ある耳障りな音が部屋で鳴り続けているのに気が付いた。私は眉をしかめる。ウィンウィン、ウィンウィン、ゴボゴボ。数分止まる。そしてまた、ウィンウィン、ゴボゴボ。水中で溺れているふうな息苦しい音は、一定の周期で繰り返されているのだ。一度耳につくとひどく音はうるさくなっていく。
 それは、古い冷蔵庫の音に違いなかった。次第に気味が悪くなってきたため、私は音楽を流すことにした。数分後、ウィン、ゴボゴボ。再びその音を聞いたとき、私は今更ながら気付いた。それは、その音が台所の冷蔵庫ではなく、もう一つの冷蔵庫、つまり、棚がわりである赤い冷蔵庫から聞こえることだった。しかし、それは使用されていないのだから、音が出るはずはないのである。私をしばし呆然とした。考えもしていなかったのだ、飾り棚だと信じ込んでいたものが使用されていたことなど。
 生きものの心臓を探るかのようにその側面に触れ、耳をあてた。細かい振動を感じる。ウィンウィン、ゴボゴボ。確かに動いている。コンセントに差し込まれた黒い蛇の頭を見つけると、私は数秒考え込んだ。
 そして、次に思いついたことは「冷蔵庫の中身を確かめること」であった。きっと何かを冷やしているということだろうから。かといって、それは簡単なことではない。モモがデザインしたそれは、大きな蝶を捕まえておく鎖が二重にまかれ、鎖には頑丈な錠がされていたため、壊さないかぎり開けることは不可能なのである。
 いや。私はすぐに気を取り直す。壊すなんていう考えは間違っている。そうだ、きっとモモがコードを間違えてコンセントに差してしまったのだ。そうに違いない。すぐにこれは私のなかで真実となり、そして、コードを抜いた。
 私は気を取り直してバニラティーを入れる。それはモモが好きでいつも用意しているものだ。ティーポットに湯をそそぎ、足をもぞもぞ動かしながら(部屋に入ると真冬であっても素足になる癖があるので寒さと退屈さのために指をもぞもぞ動かしながら)一分ほどその前で待ち、ポットの蓋を開けて、香りをかぐと、鼻先がほかほかしてきた。
 私はまた考え始める。Kのことである。私はKの存在すら知らない。それをモモに伝えると、当たり前よ、彼の人気のピークは10年近く前のことだし、彼はそんなに誰もが知っているほど有名人じゃなかったもの、ドラマは脇役ばかりだし、歌も売れたってわけじゃないし、まあ、頂点に立たずして彼は消えたってわけ、と肩をすくめた。だとしてもモモを長い間熱中させた人である、興味がわかないわけがない。私は彼がどういう人間だったのか知りたかった。その話をすると、モモはいつもはぐらかしてしまう。アイドル止めたとたん魅力がなくなっちゃった、かっこよくもないし、オーラなんてない、ホントのところ世間のきまぐれに付き合わされた普通の人だったってこと、あなたが知りたがるほどの人じゃないってことよ。
 Kのことを知りたいのは、単に彼に興味があるからではないことに自分自身気付いていた。これは、悔しさなのだ、嫉妬なのだろう。人を、いや、モモをどうすればそんなに引き付け、一途にさせるのか。
 学校の授業の合間に私は保健室へ行き、モモと同世代であろう保健の先生に、「K」について聞いてみた。
 眠たいときや授業をさぼりたいとき、私は保健室を使うことがある。頭が痛いのだ、体調が悪いのだ、といってベットに寝かせてもらうのである。私は一年のときから保健委員をしていて(立候補してその座を得る)、先生とは仲が良かったし、先生も私が仮病を使っていることを知っていても、簡単にベットで寝かせてくれることもあった。むろん寝かせてくれないこともある、本当に辛いときは、保健の先生としての感なのか、分かるようなのだ。その微妙な使い分けがうまくて感心してしまう。この学校で話しやすいのは彼女だけだった。先生のほうも親しみをこめて私をリカちゃんと呼ぶ。
 私は先生の前にあるベットに腰掛けると、そのことを聞いた。
「先生、Kって知ってる? 昔のアイドルなんだけど」
 ああ、知ってる、と意外にもあっさりと先生は答えた。だた彼女の記憶は覚束ないようだ。知識としてはあるという程度である。
「Kは、当時の流行というより、今っぽいかんじ。身長は高くて、目は切れ長で、唇は豊満で大きかった。シャイな笑い方がかわいいんだよね。ドラマの準主役的なこともしてた、映画もあったと思う。でも、覚えてることはそれくらいかな、すぐにテレビでは観なくなっちゃった気がする。賢そうな顔つきしてんだけど、神経質っぽくもあってね。サワヤカというよりキツイかんじ。そうそう、彼は4年くらい前にいなくなっちゃったんだ、週刊誌に小さく載ってた。そのとき、その性格が災いしてるなって思ったんだよ。元アイドルK失踪、過去に自殺未遂も、とか見出しついちゃって。まあ、失踪しちゃってからその後どうなったかとかは知らないな。彼の時代は大変な時代っていうか、Kの予備軍みたいなのがたくさんいたの、彼はその一人に過ぎなかったっていうか…」
 アイドルなんて本当は可哀相よね、と先生は話をしめくくった。私は葬式のようにしんみりした気分になってしまったのだった。
「…雑誌とか? それはさすがに残ってないなあ、顔がみたいの? それなら映画が残っているはずよ。確か、『僕にだって言い分はある』というタイトルだったと思う。父親を殺して逃亡する主人公の親友役よ。主人公の逃亡を手助けする役なんだけど、戸惑いつつも彼に尽くす姿はせつなくて、印象的だった。主人公は今でも活躍してるTだからさ、大きなレンタルショップに行ってみればあるんじゃないかな…」
 その後、どういうわけか私はそれを捜し出すことをしなかった。ときに義務感めいてビデオショップがあれば中へ入ることもある、しかし、そういうところには名作でもない昔の映画なんて置いているはずがない。私はろくに探しもせずショップを出るのだ。
 バニラティーの甘い薫りを堪能してから、最後まで飲み干した。私はハアアアと長い吐息をつく。
 まだモモは帰ってこなかった。もう8時半をまわっているじゃないか。カップを床に置き、カーテンのすみっこをつまみ、透明の窓から表を眺めた。寒いと感じたのは雨が降り始めたせいだった、窓ガラスに雫がノックし始める。
 音楽が止まり、私は静かになった部屋でぼんやりとしていた。再びティーをそそぎながら、横目で押し入れを見定めた。そう、Kの記事などがみたいのなら、きっとモモが持っているに違いない。そうだ、長い間Kの側にいたのだから、彼女が彼をとった写真がたくさん出てきてもおかしくないのだ。
 以前モモは、友人を部屋に呼ばなくなったは勝手にモノなどを見て回るからだ、と言っていたっけ。今、私はそのモモが嫌がることを思いついた。悪い気もしたものの、好奇心のほうが遥かに上回っていた。
 白い押入れの縁には赤色でペインティングしてあった。そこを開けると、その半分は洋服でしめられていた。仕事上、洋服は増える一方で、フリーマーケットで売らないとたまる一方なの、と彼女が言っていたとおり、その量は多い。後の半分が、布団であり、最後の半分が雑貨やCDやもろもろであった。私は下段にある、そこに目を付けた。
 もともと整頓がうまい彼女は、ごちゃごちゃしていそうでもそこには規律があるようで、私は1ミリでも変化がないよう慎重になって探る。モモがそこを開いて中からモノを取り出すのを何度か見ているし、表面部分にはそれらしいファイルなどはなかったようだった。どうやら奥まで見てみないことには捜し出せないようである。奥の段ボールが気に掛かるな、と私が手を伸ばしたとき、玄関音が開く音がして、私は慌てて戸を閉めた。
 おかえりなさい、と何食わぬ顔してモモを迎えに出る。モモは雨でぬれていたため、私は彼女にタオルを差し出した。
「電話くれたら迎えにいったのに、こんなに濡れちゃって」
「そこで買物してただけだから」
「シャワー浴びたほうがいいよ、さあ」
 モモを風呂場に入れると、私はもう一度、押し入れの戸がちゃんと閉めてあるか確認する。そんなことをしたと気付かれたならモモが憤慨するに違いないからだ。しかし、モモがシャワーを浴びている間、やはり私はどうしても気になり始める。
 モモはもともとモノをもたない人だった。このシンプルな部屋を見てみればわかることだ。ここには、いつも絶えず飾られている白い花(花の種類はそのつど変わる)と、テーブル、棚ぐらいしかない。彼女は長年ここで生活しているようだが、すぐにでも旅立つことが出来るよう準備しているかのようでもある。彼女の思い出の品は存在せず、たった今だけ生活に必要なものだけが存在しているのだ。よって私は諦め、モモの持ち物を探ったことを後悔した。
 タオルで髪の毛をふきながらモモが出てきて、私はバニラティーを注いで彼女に差し出した。私は冷蔵庫を指差しながらモモに言う。「こっちの冷蔵庫、コンセントに間違って差してたから抜いておいた」
 モモはしばし赤い冷蔵庫を見つめ、静かに笑った。
「ああ、最初からさしこんであったのよ」
「どうして、これは使ってないんでしょ」
 どうやら私の口調はきつくなっていたようだ。モモは私を宥めるふうに言う。
「そうね、別に電気をいれなくてもいいんだけど、一応、このデザインを考えたときは、電源も含め作品だったの。そう、一応テーマみたいなものがあったのよ」
 段々私はモモに失礼なことをしたのだと反省をしてきて自ら冷蔵庫の電源をいれた。
「ごめん、知らなかったんだ」
「いいの、部屋の模様替えも考えているし、それも、1年半前に拾って作ったものだし、飽きてきちゃって。もう捨てるつもり」
「そんな、もったいないよ、ああ、別な色に塗るとか」
「いや、もう必要ないかな、つまり、そのテーマみたいなものが」
 私たちは2人して沈黙し、赤い冷蔵庫を見つめた。私はモモのいうテーマというものが何なのか知らなかった。そのため私は、こう想像する。
『大きな赤い蝶。二重にまかれた鎖。鎖で縛られた蝶。つまり鎖は蜘の糸である。蝶は、蜘の巣に引っかかって空に飛び出せないでいる、蝶は蜘に捕まった状態なのだ。電気がついているのは、まだ蝶が生きているしるしだ。蝶はこの自由を奪う糸から逃れようと悶えるが、それでも生きている。しかし、電源が切れたとき、蝶の生命力も途絶えるのだ』
 この作品を必要としないと言ったのは、モモの心理であろう。モモは鎖を解かれ、蜘の糸から解放されて、自由に大空へと飛び立つ準備が出来たのだ。
 翌日、保健の先生に呼び止められた。この前あなたが言っていたアイドルKのことだけど、と。「高校時代の友人と話していたら、その話になってね、懐かしいなんて言ってさ、そう、どうやらその友人がファンだったらしくて」
 先生は保健室まで私を連れていって、そこで入れた温かいジャスミンティをだしてくれた。昔の楽しいことを思い出しているのか、先生はそれを話すとき、始終ニコニコしていて、とても楽しそうだった。
「友人と喋ってたら私も色々と思い出してきてね、昔のアイドルの下敷きやハンカチを持ってたとか、振り付けを真似してたとか、ホント懐かしい。Kのこともこの前よりいくらか思い出したよ。それより、友人のほうはKに入れこんでたみたいでさ、入り待ちや出待ちを何度かしてたみたいよ、Kって口が悪くで印象悪かったらしいね、気分屋っていうのかな。テレビや雑誌では、クールなかんじがかっこよかったらしいけど、実際の彼はファンに対して笑いかけもしないし、罵倒することもあって、冷淡なかんじすらしたってさ。まあ、またそれがいいっていうファンもいたようだけど、私から言わせるとアイドル失格よ。そうそう、あの失踪ってやつね、どうやらその日の仕事をすっぽかして、それ以後彼は居なくなったって。友人も切り替え早いし、もともと印象悪かったこともあるし、それを機に、さっさと別のアイドルに乗り換えたみたい。だから、それからは知らないらしくて、死んだ、とか、自殺した、とか、国外へ行ったとかウワサだけは色々あるらしいよ。そうだ、ビデオとか見つかった? 私も懐かしくなちゃって友人からそのビデオ借りちゃって、よかった持ってくるけど それに友人は物持ちよくてね、切り抜きなんかも保管してあったの、あなたに見せてあげようと思って、ほら、これよ」
 彼女は透明のファイルに挟まれた雑誌からの切り抜きを私に手渡した。
 その一枚には、『フューチャー』と英語で大きく見出しが書かれ、その下に『これから人気がでること間違いナシ、W誌イチオシは彼らだ!』とあった。
 真面目な表情をしたKが、胸もとをわずかに開け、インディアンアクセサリーを付け、黒いシャツを着て立っている。下に小文字でプロフィールが掲載されてあった。身長、178センチ、体重、55キロ。高校2年、16才。現在上映中の映画『僕にも言い分がある』に出演。
 私は雑誌を眼前すれすれまで持ってきて、彼の顔を睨みつけた。これがモモを熱中させたヤツなのか。私は腹立たしい気分さえしてきた。そこまでさせるカリスマ性がこの男にはあるのか、ないだろう。かなりの美形か、そうでもないじゃない。観ようと思えば観れたKを、今まで観なかった理由が理解できた。もし、それが他人のものでなければ、こなごなに破り捨てたところである。
 先生にそれを返したときには、胃液が喉まであがってきていた。胃もムカムカする上、頭もガンガンしていた。
 その夕方、気分が悪いままモモの部屋に上がり込み、しばらく眠っていた。Kの顔が嫌味なほどちらつき、起き上がったときもまだ頭痛がするので、鎮痛剤を飲みまた眠る。夜になってモモが夕飯を作っている音で目が醒めた。それでも私はごろごろしていて、食事をした後も、また寝転がっていた。
 すると、ふいに不吉なことが思い浮かび、神経質に眉をひそめてこう尋ねた。「ねえ、モモ、ここを出ていかないよね」
 モモは、突然、どうしたの? と笑った。きっと頭痛と、失踪してしまったKの写真を見てしまったことが原因だろう。頭のなかでKのクールにすました顔が渦巻いていた。
 まるでKの幽霊に取りつかれたようである。いくら追い払おうとしても、Kのことが頭から離れない。いつでもクールに笑みを浮かべるK、葬式のような黒い服装に、神経質な口調、丸まった長い背筋に、大きな切れ長の目に。モモより、私のほうがKに取りつかれているのかもしれない。
 ふいに、またあの音が耳をかすめた。ウィンウィン、ゴボゴボゴボ。見上げると、赤い箱があった。ゴボゴボゴボ。蝶の絵柄がいびつに見える。私は真面目な顔つきで冷蔵庫へすりより、耳をよせた。電源の入った赤い蝶の入れ物。それは、テレパシーでもって私に伝えたのだ。この中にぼく(K)がいる、と。モモは、不可解な行動をとる私を不審がったようであったが、一瞥しただけで何も言わなかった。
 モモが仕事に行っているときを見計らい、再度、私はそれと対峙した。最初から私はこの赤い箱に取りつかれていた。あるときは、モモの分身のように愛らしくかんじ、あるときは、奇妙な音をたてる憎らしいものだった。それもそのはず、それは、いつも私にメッセージを送っていたのだ。
 以前モモは私に、「タマシイの話」をしてくれた。今考えるとその話は、まさに象徴的だったと言える。「人は死んだら、魂が蝶となり口から飛び出す」というモモの話。なら、ここに描かれている蝶は「タマシイ」に違いない。つまり私はこう考えるに至った。
 この冷蔵庫には「K」が入っている。これは例えではなく、Kそのものが入っている。モモはKの魂(命)が、別の世界(あの世)へ行ってしまわぬよう、魂(蝶)を鎖で捕まえていたのだ。電源は、Kを永遠に冷凍させておくためのものだ。
 しかし、一八〇の長身の男が、この小さな冷蔵庫のなかに入るだろうか。急速に私は荒唐無稽な固定観念から、現実に引き戻された。Kがこの中にいると想像するのは突拍子すぎる、万一体を折り曲げたとしても入るはずもないだろう。いや、そう、もし彼の体を切り刻み、頭部や手足をバラバラにしたなら、内蔵だけを取り出し保管していたなら不可能なことではないじゃない。
 モモは、この冷蔵庫を「捨てる」と私に告げた。そう、「Kはもう必要ない」と言ったのも同然なのだ。
 私は興奮し、何かが弾けた、こう考えれば何もかもが、すっきりと解決するのだ。
『ある夜、モモは自殺したKの遺体を発見し、彼の体を引きずって部屋まで持ち帰った。あまりにも体力をつかい、内密に行なわなければならない大変な作業だったが、苦ではなかった。自分の部屋に彼を寝かし、初めてモモは彼の体に触れる、冷たくて硬い胸だ。さて彼をこのまま側に置いておきたい、永久に。彼女はノコギリで彼を切り刻むことを思いついた。保存用の冷蔵庫はそのときモモが使っていたものだ。全ての食料を出して、棚も全て取り外し、その中にKが入るかどうか確認する。頭や胴体部分が入るくらいの余裕はありそうだ、他も細かく切ってしまえば納まるだろう。そして、明け方になる頃、永久にKはモモのものになったのだった』
 長い間、彼女はKを見守り続け、喜怒哀楽も彼の元に行なわれたのだ。彼の冷淡さゆえ一度も彼女に振り向かなかったが(アパートに住むようになってからは彼に姿を見られないよう心がけていたが)、そのとき、ついにモモの想いは報われたのだった。愛すべきものの死。私はその言葉を噛みしめた。Kよ、さようなら。死んだあなたでさえモモは愛したけれど、それももう終わり。
 それ以来、私はますますモモがいとおしくなった。あからさまに彼女にしがみつき離れなかったほどである。モモは、母であり、姉であり、恋人であり、親友であった。モモほど私を知る人はいない。それをモモに言うと微笑むだけで、それだけの反応では物足りなかった。彼女は私の腕、足、もしくは心臓であると言っても過言ではないのだから。


3, 私

 保健委員は、昼休みが終わってから行なわれる掃除の時間、交替で保健室の掃除にあたっていた。その週は私のクラス他三クラスが当番だった。
 冬など冷たい水で行なわれる雑巾がけも保健室では先生の配慮により、お湯を使うことが出来る。このことも私がこの委員を続けている理由でもある。その日、掃除を済まして教室に戻ろうとしたとき、先生に呼び止められた。先生の横には、一人の女生徒が、愛想笑いして私を見つめていた。
「あなたに紹介したい人がいるの、沼田さんよ」
 私はこくりと頭を下げて、初めまして、と呟いた。
 「彼女ね」と先生は言いながら、座るよう私に丸い椅子を差し出す。その仕草で、この話が長くなるだろうことが分かった。「彼女、追っかけしてるんだって、リカちゃん、そういうのに興味あるんじゃないかと思って、ほら、この前Kのこと聞いたでしょ」
 本当のところ興味など全くなかったのだけれど、私はとりあえず、ええ、と頷いた。
「やっぱり、良かった、彼女、今日学校が終わってから、渋谷まで入り待ちをしに行くらしいの、どう、行ってみたら?」
 そこまで先生が喋ったところで、ようやく、その沼田さんとやらは前に乗り出し、単刀直入にこう尋ねた。
「ねえ、誰がスキ?」
 私はしばらく押し黙った。アイドルとかに無関心な私は、かなりの有名人しか知らなかったからだ、きっと彼女のように通(ツウ)な人は、きっと超有名なアイドルじゃ満足いかないんだろう、などと考えているうちに、さらに私の口は固くなった。
「私ね、Aがスキなの、どうAはスキ? 今日、渋谷に行くから一緒に行かない? 他にも、Sとか、Tとか、いるよ」
 沼田さんは、奇妙なくらい愛想がよく、明るく、優等生のようにはきはきと言葉を喋った。それに、長い髪の毛と切りそろえられた前髪がモモを連想させる。
 私は、彼女の言うAというアイドルを知らなかった。SもTも知らない。しかし、誰?とは言えなかった。普通そのくらい知っておかなきゃいけないという、妙なプライドが邪魔したのかもしれない。
「じゃあ、一緒に行こうかな、渋谷なんでしょう」
「そう、今日、公開録画の日でさ、ほら日曜日の六時半からやってるミュージックMの。それにレギュラーの彼らが、ハンズの前で待ち合わせしてから、Nホールにに向かうの。実は、渋谷駅からホールに向かう下組と、原宿駅から向かう上組があるんだけど、Aくんは下組なのよ、だから渋谷なんだけど、それでもいい? もしMとか、Yとかがスキなんだったら上組なんだけどさ」
 私は途中から理解不可能になっていたけれど、いいよ、と頷いた。
「私もAが一番スキだから」
 そう付け加えると、彼女は、とても喜んでいた。あなたとは友達になれそうだ、とまで言った。
 三時に渋谷に着いてから、沼田さんは109でカードを買って、マックへ入りこむと、カードにメッセージを書き始めた。
 それがAへ手渡すだろうことは尋ねなくとも理解出来たけれど、どうして手紙ではなくハガキなのかと尋ねると、彼女は文字の横に花のイラストを付け加えながら言う。
「手紙だと封を開けるのが大変でしょ、ファンレターを手渡すときはカードが基本なの、プレゼントも荷物にならないものが基本よ」 彼女とカード売場に行ったとき、あなたも買えば、と言われたので、私は、彼女と似たようなカードを購入していた。私も彼女と同じように、カードにメッセージを書きこんだ。と言っても、「Aくんへ。大好きデス。ずっと応援してますので、これからも頑張って下さい」という単純な内容だ。彼女はカードにびっしり書き込んでいたけど、私にはそれくらいしか思い浮かばなかった。
 宇田川交番あたりまでやってくると、彼女は時計をちらちらと何度も見て、周りを見渡していた。
 彼女が言うに、「ファンが手紙を渡していいのは、Aらが渋谷駅からハンズまで行く間だけなの、その前もその後でもいけない、途中でさっと手渡すだけよ」
 つまり私たちはその場所でAを待ち伏せしているわけである。毎回同じ道を使うかどうかも分からないし、同じ時刻に通るとも分からないから、逃すときもあるらしい。
 どうしてその区間でしか手渡せないのか、と私が尋ねると、彼女は答える。「ジョウの子がうるさいの、怒られちゃうのよ」
 私はそれ以上は聞かなかった、あまり聞く気がおきなかったと言ってもいい。10年ほど前にモモが体験したという話を思い出していた。10年が経過しても今の状況は、モモのときとそう変わりなく、いや、それ以上に規律など、大変なことになっているのかもしれない。それを知らずに踏み込んだものは追い出されるだけなのだ。
 そのとき、沼田さんは、あっと叫んで、道路を飛び出した。道路の向こう側には長身の男が歩いていて、五人ほどの女の子が集っていたから、彼女がAを発見したのだと気付いた。しかし、私は彼女から出遅れ、しかも、焦ってついていこうとしたため、鉄柵に足が引っ掛かって、転んでしまった。
 再び立ち上がったときには、かなり先にいた。彼の茶色い短髪の毛が、女の子らより二つくらい抜き出て、川に流されていくふうにサアと遠くへ行ってしまった。沼田さんはちゃっかり彼にカードを手渡したようで、私のほうへ走って戻ってくる。
「大丈夫? すりむいちゃったね、私、バンドエイドもってるから」
 沼田さんはてきぱきと動き、私を柵に腰掛けさせバンドエイドを丁寧に貼ってくれた。
「残念だったね、でもまた来週逢えるから」
「そうだね、ありがとう」と私は答えたものの、来週もまたここへ来る気分ではなかった。
 彼女と別れて代官山まで戻ってくると、私は駅前の書店に入った。
 すると、ついさっき目にした彼がP誌の表紙を飾っていることに気付き、無意識に手に取っていた。
 私はまじまじと表紙の彼を見つめる。にっこりとアイドルスマイルをする彼は、さっきの彼とは印象が違う気がする。ページをめくり、彼の記事を探す。中身の彼は、クールな顔つきで撮られている。これも彼とは違う印象がする。私が知っている彼は…。
 私は、彼の前で転んだときのことを思い出していた。沼田さんが先に行ってしまって、慌てたものだから鉄柵に足を引っ掛けた私は、なんとか転ばまいとカバンを投げ出した。その投げ出したカバンが鉄柵に当たり、ガツンという鋭い音をたてたのだった。そのとき、Aがこっちを振り向いた。
 一瞬私は彼と目があい、それはほんの数秒、零コンマ何秒かもしれないけど、確かに彼と目があった。彼は心配そうな顔をして私をじっと見つめていた。
 その光景とぼんやり思い出しているうちに私はその雑誌を買っていた。買ってしまってから一体なぜそれを買ってしまったのかと我に帰った。彼が私を見つめていたというのは、広いコンサート会場で彼が自分を見ていると言うのと大差ないだろう。
 そして、店内と一回りして帰ろうとしたとき、ふと私は足を止めた。確か以前はここになかったはずである。そう、私は偶然にも、『モモ』の本をみつけたのだ。
 値段は、高くも、1700円だった。残金が心配になってサイフをのぞくと、2000円弱しか残ってない。しかし、迷っている気はなく、私は、それも買った。
 モモのうちに合鍵であがると、早速に『モモ』を読み耽った。
 モモには私がこの本を読んでいることを知られたくなかった。モモが戻ってきたら、即刻隠すつもりである。
 途中まで読んだところで、私は我に帰った。ちょうどよい、8時5分だ、あと数分で彼女は戻ってくるだろう。
 私が読めた『モモ』の物語は、時間王のところで一日過ごしたと思っていたら、実際の世界では一年たっていた、というとこまでであった。実際のモモも、Kのところで過ごした時間は、4年間でも、きっと4日ほどに感じていたのだろう。しかしながら、時間王とモモが恋愛する話はまだない。
 モモが戻ってきたので、私はすばやく本をしまい、P誌を取り出した。すぐにモモは私が開けていた雑誌に気付いたようである。
「あら、それP誌? 懐かしい。そんな雑誌持ってるなんてめずらしいじゃない、誰が好きなの?」
 私は表紙の彼を指差して、この人、と言った。
「へえ、かっこいいじゃない、高校生?」
 まさかそんな問いが返ってくるとは思わなかった。私は慌てて彼のページを開いて、プロフィールを探した。
「15才、中3ね」
 私は自分の口でそれを言っておきながら自ら驚いていた。高身長で大人びた顔つきをした彼が私より二つも年下とは…。
「身長もかなり高くてかっこいいの、えっと…」そう言いつつ記事を確かめる。「そう、181cmもあるんだから」
「今日ね、彼の入り待ちに行ったの、側でみるとテレビで観るよりかなり高くてびっくりだよ」
 陽気な声でそう言いつつも、私は話を切り上げたく雑誌をぴしゃりと閉じた。
 雑誌をカバンにしまおうとしたとき、彼に手渡そうとしたカードがすべり落ちてきて、瞬時私の動作は止まり絵柄を凝視した。今日初めてAを知ったのに、私はこのカードに妙な思い入れをかんじていた。またあの場所へ行って彼を待っていようとは思わないけれど、これをすぐに捨ててしまうのには忍びない気分がする。彼とも逢えず、手渡せなかったこのもどかしい気持ちによって、モモや沼田さんが彼らを追っかける気持ちがわずかに分かった気もするのだ。
 結局、その日はなんとなく気分がさえないままで、モモと夕飯を食べた後、夜には家に帰ったのだった。
 冬休みに入ってからは、毎日、モモと一緒に過ごしていた。
 ある日、私はモモと一緒に田園調布駅で下車して、多摩川まで歩き、ピクニックに出掛ける計画をした。私は川辺から見る波の質感が魚がクリームの上を滑るふうで好きだった。雪が降りそうな寒い日に、サンドウィッチを握る指も凍えてしまうよ、と自分でいいつつも、強引に彼女を誘って出掛け、私たちはその休日を楽しんだのだった。
 一日中モモと一緒なら楽しかったろうけれど、むろん彼女は昼間仕事なわけだから、私は彼女の仕事が終わるまで、代官山を歩き回ったり、ショップを回ったり、カフェを渡り歩いたりしていた。そのため、以前は不慣れだった代官山も、今では私の庭のような存在になってしまった。意外にもモモは長い間ここで暮らしていたにもかかわらず、いや、多分それゆえに、周りのことを知らなかった。そのため、かわいいショップやカフェなど見つけては、今度あのカフェに行こうよ、ケーキがおいしいの、と誘ったりした。
 モモは相変わらず、家に戻らないでいると親が心配する、と言ったけれど、私には、どうでもよいことであったし、再三モモに説明をしていた。私の友人なんて(友人と呼べるかどうか今では分からないけど)明け方まで渋谷とかで遊んでて、親の心配なんて顧みない子ばかりよ。そうでない子でも友達のうちに泊りにいくなんて普通のこと、ほら、私なんて健全なほうでしょ。
 でも報告だけはしておいてよ、とモモは忠告する。モモは口に出さないけれど、私が学校の友人と遊んでいないことも心配していたのだ。確かに私はモモと出会う前は友人と呼べる子がいた、いや、今でも学校に行くとちゃんと友人のままでいる、と思う。少々以前と付き合い方が違ってしまうのは致し方ないだろう。彼女たちをバカにするわけじゃはないけど、モモとの環境のほうが私に安心感を与えるし、小さなことでいちいち悩んだり、人に嫌な思いをさせる子より、モモと一緒に過ごすほうが精神的にいいに決まってる。彼女の落ち着いた雰囲気や、知的な発想を吸収して、私はずいぶん大人になった気がするのだ。この神聖な心をぐちゃぐちゃにしてしまう関係は、今の私には必要ない。
 ときにモモは気弱な口調で、本当に私なんかと一緒で楽しいの、なんてことを問うことがあった。私は驚く。どうしてそういう発想に辿り着いたのか…。私は声を大にして、こう答えた。「モモは周りを幸福にさせる力をもっているし、モモに悩みを話すと一気にふきとんじゃう。私の好きな人と一緒にいることが精神的に一番いいと思うの」
 多摩川へ辿り着いたその昼間は、ちょうどよいピクニック日和で、ほかほかと頬がほてった。モモは白いコートの衿に蝶のブローチを付けていた。それが太陽の反射によって銀白色に輝いていて、私は目を細めてそれを見つめる。
「ねえ、部屋の構想は決まったの?」
 私はモモに尋ねた。モモは部屋の模様替えのためショップを巡り、次に使うインテリアを物色している最中だったのだ。まだ次の構想は彼女の頭だけにある。どうやら部屋の雰囲気を全くかえてしまうらしい。
「和紙の質感に惹かれているの、壁紙のほうもちょっと考えてるんだけど、そのうちリカに見せるから…そう、来週にはなんとかなるかな」
「じゃあ、手伝うよ」
「うーん、どうしようかな、あなたを驚かせたいの、そうだ、一日だけ時間ちょうだい、翌日には、がらりと変えてみせるから」
 赤い冷蔵庫はなくなるね。そう、私は心の中で呟いた。
 私はモモの顔をまじまじと見つめた。もう半年以上になるのに、モモの表情をこんなにまじかで凝視したことがあったろうか。このとき初めて私はモモの顔をしっかりと記憶できた気がしたのだ。モモの肌の白さや、寒さで桃色になった頬や鼻や、目がビー玉のように丸く輝き、笑ったときの目尻の下がり具合、話をするときの身振り手振りとか、歩く後姿とか、長くて黒い髪が揺れる。それら全てがモモだった。
 一週間後、私はモモのアパートへ行った。今日は模様替えする日である。しかし、モモは私を発見するなり、ダメダメ、と追い返そうとした。
「約束じゃない、まだみちゃダメよ、明日ね、あした」
「でも、まだ何もしてないじゃん、せっかく来たんだし、手伝うよ」
 モモはようやく折れて私を部屋にあげた。私は赤い冷蔵庫を捨ててしまうところを見たかった、ゴミ置場に置くのを確かめたい。いや、本当は、その中身を知りたい…。
 結局その日はモモともどもダラダラしていて、部屋はそのままの状態だった。明日の夕方には部屋が出来上がっているというので、じゃあ、明日の夕方、学校が終わった後、すぐここへ来る、と約束した。
 翌日、『モモ』の本がまだ読みかけであることが気になって、私は一度うちに戻ると、ベットに置いていたそれを手に取った。
 一時間もあれば読み切ってしまいそうな頁数だった。時計を見る。時間はあるようだ。突如、冷蔵庫が消えて無くなるわけではないし、モモのうちに行く前に読み切ってしまおうと思った。
 最初、モモの過去を探る気分で読み始めたその本だが、それが下らない思いつきであったと、読みすすめるたびに思った。モモはどこで聞いたのか…間違いを信じていたのだ。 時間王は、人の時間をつかさどる者であり、金の眼鏡を持ち、それで全てのことを見ている。急に若くなったり、急に老人になったり、大木のようにたくましくモモを腕に抱く。彼のことを不思議で偉大な存在に感じたかもしれない、しかし、物語のモモは彼に恋をしたわけではなかった。
 モモは、時間王に恋したと思っている。その間違いを信じ、正しいことを知ろうとはしなかった。読んでもいないのに、それのみを信じたということは、その部分だけ彼女は物語に感情移入していたのだろう。モモにとってはKは時間王のような存在であったのかもしれない。カリスマ性があり、いつまでも若く、完璧で、不可能などない存在である。モモはKに人間らしいことを望まなかったのではないか。Kがこの世からいなくなって、一番安心したのはモモかもしれないのだ。
 やっぱり、行方が分からなくなったKは、あの中にいるのではないか。その考えは、突如、私に真実となってまとわりついた。なんとしても、あの中身を確かめないことには気が済まない。
 窓の外は暗くなり始めていた。約束の夕方にはもうおそい時間帯である。私は時間を無駄に過ごしてしまっていた。家に戻らず、すぐにモモのところへ行けば良かったのに、何かが起こるのはいつも突然なのだ。
 モモのうちを訪れたとき、彼女の姿はどこにもなかった。鍵は開けっぱなしだったし、部屋の模様替えは途中であり、買いそろえていた和紙などが玄関のところに置きっぱなしだったので、てっきり私は近くへ買物にでも出掛けたのだと思っていた。しかしながら、10分たっても、20分たっても、彼女はうちに戻ってこないのである。
 私は赤い冷蔵庫と対峙していた。透視するように目をほそめ蝶を凝視していた。そして、二時間もたった頃、今更、ホント今更になって私が気付いたのだった。テーブルの上の白い花を飾った一輪挿しの下に、手紙が残されていたことを。
 手紙の文面を追っているのに、途中から文字がかき消されていく感覚に襲われた。信じられないことだが、ホント信じられないことだけど、そこにはこう書いてあったのだ。
『リカへ。突然のことで私自身も困惑しているのですが、ここを離れることになりました。北海道へ行くのです…あなたに今までお話してなくてごめんなさい』
 そして、その次には理解不可能なことが書いてあった。
『…実は、Kが迎えに来てくれたのです。部屋にあるものは自由に持っていってもらってかまいません、大家さんに捨ててもらうようお願いしてありますので。今までありがとう、あなたは私に希望を与えてくれました、毎日がとても楽しかったです。モモより』
 そう、モモがここにいない理由は理解できた。私を残して去ってしまったということも。モモに対して怒りとか悲しみとかそんな感情はない。ただ理解するのだ。
 K…Kは生きているのか? そう、Kはモモの手によって切断され、この冷蔵庫の中にいるのではないか。実のところ、私は冷静どころか、混乱しまくっていたのだ。私の脳味噌は、科学実験されているようにぐつぐつと燃焼され、額に汗をかかせた。
 私は手紙を丹念に読み返す。わざわざ声に出して何度も読む。K。K。K。それは確かにKの名前である。
 私は眼前の赤い冷蔵庫を私は凝視した。その中身を確かめなくては気が済まなくなっていたのだ。かといって、それは簡単ではない。頑丈な鎖と錠が冷蔵庫をぐるぐる巻きにしていて、むろん鍵はない。懸命に手で引っ張って、手が腫れるまで格闘したのに成果はなかった。次にモモの押し入れを探って、この鎖を切断出来るものを見付けようとした。押し入れをぐちゃぐちゃにしても見つからないので、次に台所の棚を探る。そこにペンチを見付けだした。
 鎖を切ることすら一苦労だった。30分も格闘した後、鎖が切れ床に散らばった。しかし、いざ扉を開ける段になると、鎖を切る以上に勇気が必要だった。
 そんな興奮状態であったから、冷蔵庫を開けた途端、その中身に私は拍子抜けした。
「えっ、なに?」と、私は低く呟く。何も入っていなかったのだ。冷たい冷蔵庫のなかをバンバン叩き回る。
 いや、違う、何もないわけではなかった。白い封筒が一枚その中に入っていた。私はそれを手にする。冷気の冷たさも加わって微妙に私の手は震えていた。
 それは手紙だった。モモに宛てたもので、宛先は「K」だ。住所もなく、Kとだけ書いてある。私はしばらく白いばかりの冷たい手紙を凝視してから、封をあけた。
『この街にきてずいぶんたった気がする。過去のことが懐かしく思えるほど、毎日が忙しく充実しているからだと思う。もし、あのときモモに出会わず独りきりでいたなら、今の僕は確実になかっただろう。一番苦しいときにモモは側にいてくれ、励まし、生きる方向へ導いてくれた。どういう状況であっても人は生きていけるし、どういう状況でも僕のことが好きだといってくれたことは、今でも励みになっている。あの頃きみに辛くあたったことを許してほしい。あの頃の僕はどうしようもなかった。今までモモの居所を知りながら連絡しなかったのは、自分に自信がもてなかったから、この先、生活していく自信がなかったのだけれど、ようやく方向性も見つかり、それに向かって進みだしたところ。来年で夜学も卒業出来るし、そうなればモモを迎えに行きたい。すぐってわけにはいかないけど、この一年以内には必ず…。もちろんこれは僕の勝手な言い分だし、もう僕のことを忘れているかもしれないけど。K。』
 それを読み切ったとき、私は、恐ろしいほど冷淡な気分になっていた。
 もしかしたら、これはすべてモモの狂言かもしれない、と私は閃いたからだ。モモの長い物語も、全て彼女の空想だとしたら、嘘を突き通せず彼女は去ったのではないか、もしくは、単にモモは私といるのが嫌で、こんなからかうような手間をかけてまで逃げ出したのではないか。いや、私はその下らない考えを捨てた。
 手紙にある、一年という言葉が気になり消印を見た。それは一年半以上前の判が押されていた。つまり、Kは約束した1年以内にはモモを迎えにはこなかった、というわけだ。そして、その約束の期限が切れる頃、モモと私は出会ったのだ。いつの日か、Kはどういう顔をしているか、と尋ねたとき、モモは笑いながら、あなたみたいな顔、とうそぶいたことがあった。それを思い出すなり私は半ば淋しくもあり、半ば食傷気味にもなった。
 私は疲れ果てていた。いつのまにか外は真っ暗になっている。わずかに外灯の光りが漏れてくるのと、開けっぱなしになっている冷蔵庫の電気だけが私を照らしていた。
 モモを責める気持ちはない、Kを憎む思いもない。いや、もともとそんな気持ちがあったろうか。モモは長い間彼を追い続け、その願いがかなったのだから、彼女のためにも喜んであげなければならない。彼女はこの冷蔵庫の中に彼の想い閉じこめ、逃げていかないよう頑丈な鎖までしていたのだ、確かにこの赤い箱はK自身で、モモは彼へ命(電気)を与え続けていたのだった。最初から、私は、この結末を知っていた気がする。
 そうだ、モモの手紙にあったとおり、彼女の洋服などをたくさん持って帰ろう。赤い格子のワンピースは夏になると私の腕にある蝶にとてもよく似合うだろうし、白いコートはもう着れるし、あのかわいい蝶のブローチは欲しかったものだし、色々と捨ててしまうのはもったいないし。
 さっきから、なんだか目が霞むようだ、私の頬へ熱いものが流れだしていた。とりあえず、しばらくこの部屋から夜空でも眺めていようと思う。

the end & thanks! (1999)

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