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ひとりふらり、ふたりふわり。  
by kaname inoue


1 ひとり

 マキとサトのやりとりは、いつもこんなかんじで始まる。
 「ねえ、サトちゃん、お腹すいたよねえ?」「うん、すいたよね、お昼、何食べようか?」「そう、今日は、ずっしりくるかんじがいいかなあ?」「カツとか?」「そうだね、カツとかだよね」「じゃあ、おいしいところ知っているから、そこにしようか?」「うん、いいよ」(店に到着、りっぱな門構え、ちょっと高そう。二人の前にカツ丼がだされる)「サトちゃん、ここのカツ丼おいしいね」「うん、おいしいよ」(しばし沈黙)「どうしたの?あまり食すすんでないようだけど?」「いや、ちょっと油がね」「そうね、油がきついよね、肉も大きいし」「ねえ、どうしたの? マキちゃんもすすんでないようだけど」「いや、そんなに食欲がね…」「ないの? そうか、私もそんなにお腹すいてないし」「そうだね、すいてないんだよね、ごめんね、別のにすればよかったね」「ううん、これおいしいし、うん、なんだかお腹もすいてきたし食べられるよ」「そうだね、食べられそうだよね」
 もしくは、こんなかんじ。
 「ねえねえ、サトちゃん、このクレープおいしそうじゃない?」「そうだね、食べようか?」(サト、ちらりとマキをのぞきみる)「うん、そうしようか?」(マキもちらりとのぞきみる)(そんな伺うような視線を無視しあい、二人は一気に笑顔、同じクレープを買い、そばの黄色いベンチに腰かけ食する)「ちょっと甘いね」「そう、このクリームが甘過ぎるよね」「そうなの、あまり甘いのは好きじゃないんだよね」「あっ、嫌いな苺がはいっている、食べられないや」「あっ、そうか、マキちゃん、苺食べられないよね、誘ちゃって、ごめんね」「いや、そんな意味で言ったんじゃないの、ごめんね」
 もしくは、こんなかんじ。
 「今度、バイトの飲み会があるじゃない?」(二人は、同じバイト先で、事務のバイトをしている、雑用ばかりで走らされ、いつもヤメたいと二人でいっているが、一向に辞める様子はない)「サトちゃんは行くの?」「うーん、どうしようかな?マキちゃんは?」「うーん、どうしよう、行かないとこうかな、でも、Kさんが来るみたいなんだよね」(Kとは、マキが好きな同じ部署にいる上司のことである)「あっ、そうなんだ。じゃあ、行く?私はマキちゃんが行くなら行こうと思ってたし。近くに座ろうよ」「彼女に睨まれるかな」(実はKには同じ会社内に彼女がいる、近々婚約するという噂だ)「来ないみたいだし平気よ」「うん、じゃあ参加しようかなあ、サトちゃんが行くならだけど」「うん、私は行くよ、マキちゃんが行くんなら…」
「やめておいたほうがいいんじゃない」
 いきなり二人の会話に立ち入ってきたのは、同じ職場で働くシオであった。シオは細い体をより一層細くみせるような黒いシャツにスリムなジーンズをいつもはいていた。口は悪く、つっけんどんな印象を与えるが、逆に、そのストレートさは気持ちよいくらいで、嫌味がない。サトはそんなシオにたいして好感をもっていた。シオは、たばこを灰皿に押し付けると、けだるそうに足を組みかえた。
「またセクハラされんじゃん」
 二人は、二人きりで話していたつもりであり、まるで二人きりしかいない気になっていたが、その場所は職場の休憩所であり、当然、他のものも入ってくるのだ。そこにシオがいたことには気付かなかったため、二人とも不味い食べ物を食べさせられたように眉間にしわをよせた。そもそも、二人は鈍感なところがあり、周りに人がいることに気付かず、自分達の会話に一生懸命になるところがあった。
 マキとサトの二人は、お互いに、よそよそしくなり、お互い目をあわせなかった。シオが二人きりの会話に侵入し、触れてはいけないところに触れてしまって、次の会話に困ってしまったのだ。
「ほら、以前の飲み会でセクハラされたって、ここで言っていたじゃない。そういうことされるの分かっていていくのは、どうかと思う…」
「セクハラなんて一言も言ってないですよ、それに、ほら、シオさん、ここ禁煙ですよ、喫煙室は向こうじゃないですか」
 サトは愛想良く微笑みながら、しかし、声は、話を打ち消すように、そう叫ぶ。
「サトも、サトよ、そんなセクハラを応援してどうする…」
「また、もう、シオさん、チクちゃいますよ、またこっちで吸っていたって」
 全く楽しいわけじゃないのに、サトは、これ以上愉快なことはないというふうに、けたたましく笑う。
 マキとサトは二十歳で、シオは、その4つ上である、バイトからそのまま就職した先輩でもあるが、サトとは、普段は友達のように接していた。そのため彼女にたいする口調も軽い。
 サトは、真顔な表情でマキへと向き直ると、笑顔になって優しい声で言う。
「休憩も終わる時間になっちゃったね、行かなきゃ、マキちゃん」
 マキは、まだ真っ青な顔をしていた。二人が休憩室から出ると、マキは、真剣な顔をしてサトを見つめた。
「私もね、分かっているの。確かに、とてもショックだったのよ、最初に、そのお…」マキは少し声のトーンをおとし、「その、セクハラみたいな、そんなことされちゃったときは。でも、私の体に触れてくるのは愛情だと思いたいの、どんな形であれ…。確かに彼には恋人がいるし、私のいろんなところに触れてくるのは間違っているのかもしれない。でも、好きになっちゃったもの、仕方ないのよ」
「分かる、その気持ち分かるよ。好きでいることは自由じゃない」
「うん、何をされても、好きなったものの負けね、許すしかないの」
 サトは、もっと励ます言葉を考えていたが、大して良い言葉は浮かばなかった、シオが言っていたことも気になっていたこともある。応援…。私は本当に彼女を応援しているのか? その考えを打ち消すようにサトは言う。
「でも、Kさん、私とか他の人には、そういうことしてないみたいだし、やっぱり、マキちゃんのこと気に入っているから、Kさんも触れたいんじゃないのかな」
「そう、この前ね、かわいいね、って頭なでてくれたんだよ。私の気持ちを知っていてそういうことするのかなあ? ホントずるいよね。はー、少しは好きでいてくれるのかなあ?」
「もちろんだよ、マキちゃん、かわいいもん。もっと自信をもって。あー、私も早く好きな人作りたいなあ、そういう人がいるだけで、うらやましいよ」
 サトは笑顔でそう言ったものの、二人の視線が外れた途端、サトの顔からは笑顔は消えた。


 マキとサトの付き合いは、半年くらいの短いものだった。同じ大学で友達を通して知り合い、それと同時に、マキに誘われ、サトも同じところでバイトすることになった。マキはサトに、なにかしら息がつうじるものを感じ取ったのかもしれない、それをきっかけに、さらに二人の仲は急速に進行し、今では、片時も離れないかんじである。バイトも、もう一人が終わるまで、ずっと休憩室で待っていたりしたし、むろん、帰るのも一緒であり、帰る途中には、必ずマキの好物である、マックのハンバーガーを食べて帰った。実は、マキの目的は、ハンバーガーより、そのセットのスヌーピーが目的であったりする。サトは、スヌーピーにも、マックにもたいして興味はないのだが、値段は安いし、グッズはかわいいし、ここが一番だよね、と言いながら、そこについて行くのだ。
 二人の会話の大部分が、Kについてであり、後は、大学やバイト先の人のかっこいい人の話や(マキはどこからかっこいい人をみつけてくる天才だとサトは思う)、芸能界のかっこいい人の話題、後は、好きなショップの話とか、サトは映画が好きでよく見るのだが、マキは映画を見ないし、テレビドラマが好きなため、映画の話、とくに洋画の話題をすることは一度もない。かといって、会話にことかくことはなかった、何を喋っているのか、本人達にも、分からないくらい、なぎ倒して行くように喋っていく。とても笑い、とてもはしゃぎ。とても楽しい。とても…楽しい…。


 サトは、家に辿り着くと、家族への挨拶もなく、自分の部屋へ直進した。居間から両親と兄の声が聞こえてきていたが、サトが帰ってきたことに気付くことはなかった。
 部屋に入ると、昨夜眠ってしまったために、途中になっていた映画「地下鉄のザジ」のビデオをつけ、ヘッドホンを頭につけて、スナックをほおばりながら、それを観ていた。昨夜途中で寝たといいつつ、この映画は何度も観た映画だった。ヘッドホンをつけるのは、同じ部屋を、妹と共有しているからである。相手に気づかい音が聞こえないようにして、音楽やテレビは個人で楽しむようにしている。今は、妹はまだ帰ってきてないので部屋に一人きりなのだが、誰もいなくてもそうすることが習慣になっていた。
 目前に置いてあった携帯がブルブル震え、サトは映画もみつつ、横目で、メールを確認した。誰からのメールかは見なくても分かった。大体、この時間帯にメールをしてくるのは彼女くらいだったからだ。
『私の悩み相談ばっかりで、ごめんね。彼のこと嫌いになれたらいいのに。そしたら、こんなに悩まなくてもすむのに。もっと強くならなきゃね。今度はサトの悩みも聞くから、何でも相談してよ。私じゃ頼りにならないかもだけど』
 サトはすぐに『私は悩みなんてないから、マキちゃんの応援を』と打ってから、その携帯を一度床におろした、そして、送信せず、そのまま電源を切った。
 とても疲れた気がした、脱力感におそわれる、そのまま横になり、今日もまた知らない間に眠っていた。


 トコは、自転車でどこへでもやってきた、大学へも自転車で十分ほどであり、新宿までも、自転車で、二十分ほど。渋谷にだって行けない事はない。満員電車に揺られるよりかは、自転車が一番楽なんだ、と言う。
 トコというのはあだなで、本名は、トキオという。青空の下を自転車でよく走っているせいか、顔や腕は日焼けしていて、背は高く、体も細いながらも、ガッチリしていて、健康そうな印象を与える。その一方で、背が高いせいか猫背になりがちで、背中を丸めて歩いている姿は、孤独な印象も与えた。自転車じゃないときは、どこへでも歩きでやってきた、トコトコとどこまでも。歩くことは嫌いじゃない、人込みにいるよりかはマシさ。
 サトはトコが、自転車を新宿の路地で停めている姿を発見して、近付いていった。
「ホントいつも自転車だね」
 トコはまだ夏前だというのに、すでに黒くやけていた。
「今日は、あの子は一緒じゃないんだね」
 トコはサトを一瞥すると、挨拶もなく最初にその一言を呟いた。あの子とは、マキのことだろう。サトはムっとして、その質問を無視した。
「トコは今からどこいくの?」
「いや、ちょっとね、ふらりとね」
 いや、別に、とか、ちょっとね、とか、まあね、とか、あまり言葉にだして言わないのが、いつものトコとのやりとりである。
「一緒に行ってもいい?」
「いいけど」
 トコとサトの間にあまり会話はない、会話はないけど、サトは、トコの後をトコトコとついていく。トコは気がきくほうでないことも知っている。さもすれば、雑踏のなかで見失ってしまうことがある、ただ、そのときは、トコのほうがサトを見つけてくれるのだ。そのときも、大丈夫?とか、ごめん、とかの言葉はなく、無表情のままサトをじっと見下ろし「さあ、行こうか」と言うだけである。
 トコは、無愛想だし、最低限のことしか言わないし、サトにとって、それが不安になるときもある。もしかして、気を悪くしているんじゃないか? 本当は邪魔なんじゃないか? もっと気を使ってくれたらいいのに、もっと見てくれたらいいのに。そう思いつつ、サトがトコを見つめていると、トコは何かを感じ取ったように、サトをじっとみる。なんだか、言葉がなくとも、気持ちが伝わっている気さえしてきて、サトの心は安らいでいく。言葉なんて必要ない、分かるだろう、邪魔なだけさ、トコはそう瞳で伝えているようであった。
「ねえ、来週もまた一緒にいていい?」
 サトがそう言うと、トコは、さっきの瞳で、じっと見てから、「いいよ」と一言呟いた。
 笑顔をあまりみせないトコが少し笑った気がした。なのでサトは、ずっと無言のままついていく、それが心地良いのだ、トコトコと彼の後ろをどこまでも。


 えっ?ホントに? マキは、休憩室でそう叫んだ。サトは、今日でこのバイトを辞めることを上司に伝えたと、マキに言ったのである。
「もっと早くに相談してくれればいいのに。確かにバイト大変だけど、他よりかは楽だと思うし。どうかしたの?」
 マキは悲しそうな顔をした。
「ごめんね、今迄黙っていて。でも、前から、マキちゃんも辞めたいって言っていたじゃん、マキちゃんはどうなの?」
 マキは、何かを言いたそうに口をもごもごと動かし、そして、苦虫をつぶしたように口元をゆがませ、眉をしかめた。
 その言葉も、今迄のサトの言動からすると、きつい言い方だっただろう。実は、このところ、サトは、マキを少しさけるような態度をとっていた、あからさまではない。いつもはお互いが仕事終わるのを待っているのに、サトは先に帰ってしまったり、帰りのマックを理由もなく断ってみたり、ちょっと早歩きだったり、そういう類いではあるが、いつも一緒という雰囲気ではなくなってきていた。いっつも一緒にはいたくない、いっつも一緒だとは思われたくない、そう思っていた。マキは、口には決して出さないまでも、その微妙な変化を感じ取っていたのだ。
 数分間、二人は黙ったまま、自動販売機製の甘過ぎるココアをゆっくりと飲み込む。いつも喋りどおしの二人にとって、ここまで長い沈黙は初めてだったかもしれない。辛い沈黙だった。たった、3分間。されど、3分間。サトは、意外に落着いていたが、マキは、何か喋らないと、と、そわそわしているふうであった。そして、マキは、沈黙をおおい隠すように、いっぺんに明るい表情になって、言う。
「そうだ、サトちゃん、今度の日曜、原宿いかない?かわいいショップ教えてもらったんだ」
 サトはしばらく押し黙っていた。
「ごめん、日曜は、用事がはいっているんだ」
 マキからは笑顔が消え去り、涙があふれんばかりの表情となって、そっか、と呟いた。
 バイトが終わり、二人はいつもと変わりなく一緒に帰った。でも、マキは、これが二人の最後になると感じ取っているのか、話すことが、そういえば、初めてサトちゃんと代官山にいったときは楽しかったよね、とか、バーゲン品のお揃いの服を買ったよね、とか、過去の楽しい思い出ばかりを掘り返していた。彼女は、明るい声のトーンではあるものの、表情には曇りがあり、無理をして笑っているようにみえた。
 サトは、そんなマキの表情を横目でみながら、彼女を悲しませてしまったと思う申し訳ない気持ちと、彼女を悲しませてはならないという強迫観念的な焦燥感と、やっとそれから解放されると思うのとで、複雑な気分になった。
 マキは、何事にも敏感な子だった、小さい事でもとても気にする子だった。そのことを、サトは充分に分かっていた。マキは、サトの小さな言動だけで、すべてを感じ取って、この世の終わりのような深刻な顔をしているのだ。
 サトは右、マキは左に入ってくる逆方向のお互いの電車をホームで待っているとき、いよいよマキの表情は辛くなってきた。マキが乗る電車がホーム内にはいってきて、その扉が開く。彼女は、別れ際に、小さな声で呟いた。
「サトちゃん、ごめんね。どうしてだろう。私、友達になっても、結局、いつも皆ないなくなっちゃうんだ」
 サトが何かを言おうとしたとき、彼女はさっと電車に乗り込んだ。マキは車内から、笑顔で、バイバイと手を振っていた。
 サトは、だんだんと悲しくなっていった。電車に乗り込んでも、座るでもなく、重たそうに体を扉にあずけ、ぼんやりと外をみつめた。永遠の別れでもないのに、謝らなくてもいいのに、そんな顔をしなくてもいいのに…。その夜は、必ず入るはずのマキからのメールは、来なかった。



2 ふらり

 
歩くのがスキだ、どこまでも歩いて行くのが、電車だと一瞬の風景が、歩いていると、それはとても繊細だということが分かる。風はいつも平等で、体を左右に揺らし、葉の香りはなにかとふらりとどこかへと誘われる。雑踏は嫌いだ、人込みは嫌いだ、思考をかき乱し、周りを観察している暇もない、人は自分の左右前後を遮り、行く手を阻むかのようだ。人込みは、不安にさせる、孤独にさせる。なぜだか分からないけど。そう、だから、歩くのは好き、自転車で風をきるのが好き。青空が好き、星空が好き。
 トコは、アパートの周りを散歩していた、目的はない、今日は、甘い香りのしていた、あのカフェに寄ってみよう。川の側を歩くと、その音に心ひかれる。あの赤い花はなんだろう、手で触れてみる、しっとりとした触感、黄色い先端。
 今日は、学校へ行く気分じゃないな、トコは、目当てのカフェに入ると、入口の本棚に置いてあった、「天井から降る哀しい音」という小説本を手にとり、じっと見つめた。内容は分からないが、とにかく題名が気に入った。
 静かな音楽、小窓から陽がさしているが薄暗い、ゆったりとしたソファとテーブルが贅沢に数個おいてある、後カウンターに椅子が5つほど、こじんまりとした店内、店のなかには、2人しか客がいない、その客も静かに会話していた。きっといつもここはこんなかんじなのだろう。トコは、すぐにこの雰囲気が気に入った。今日はここで、ずっとこの本を読んでいよう。
 トコは、チャイティを注文し、ソファに寛ぎ本を開いた。丁度そのとき、そのカフェに新しい客が入って来たことにトコは気付かなかった、その客は、トコがここにいるのを知っていたかのようで、迷わずトコの座っているソファにやってきて、何も言わずに隣にドズンと腰掛けた。トコはビックリして、その不作法な人物を見やると、それが、アサであることがすぐに分かった。それでも、トコは、驚きの声をあげた。
 どうしてここにいるの?
「ここは、いいところだよね、私もよく来るんだ、トコもよく来ているの?」
 トコは、左右に首をふり、ううん、と無言で答えた。
「あっ、ここ座っていいよね?」
 アサはよく通る声で、はっきりと言葉を言う。トコは、無言で頷く。
 アサは、コーヒーを注文し、それを飲みながら、トコになにかしらのテレパシーを送るかのように微笑んでは、そして、遠くをみていた。トコは、熱いチャイを頼んだことを、少し後悔し始めていた、それでなくとも、緊張して、汗がでてくる。
 アサは目鼻立ちがしっかりしていて、色は白く、誰がみても、いわゆる美しい顔をしていた、目はとても大きくて、その目でまっすぐ見られると、女性であっても緊張するだろうが、トコもその例外ではなく、視線を外してしまう。容姿のせいだけでなく、物おじしない態度や、誰にでも笑顔で屈託なく話しかけるところ、まっすぐな自我、はきはきと物を言うところ、強いオーラをかんじる、それは、トコにはないものばかりだった。アサは、男性からはもちろんのこと、誰からも注目される存在だったのだが、その無鉄砲さや、勝手気侭すぎるところが、友達を少なくしていた、それは彼女が誰かと一緒に仲よさげにいる事はほとんどなく、一人で行動しているところを、よく見るからだ、というか、彼女は、そんなことすらどうでもよいようだった。
「なにその本、この前は、誰かの詩集持っていたよね、そういうのトコが好きそうだよね、今度貸してって言いたいところだけど、私はダメそうだな、大雑把なほうがいいの」
 トコは、この本は、ここにあったものだ、とは言えないまま、読みかけていたものを閉じ、脇にそれを置いた。
 授業は? トコはようやくアサに自ら話しかけることができた。
 アサは、また穏やかに微笑んで、「さぼり」と一言いい、「あなたもそのつもりでしょ?」と付け加えた。
 トコは、うん、とだけ頷いて、手許にふせたはずの本をまた手にとったり、また置いたり、くり返していた。どうしていいか分からない、気のきいた会話が、もともと無口で饒舌でもないトコからはでてくるはずもないのだ。
 アサは、遠くを見つめていた。なにか思い悩んでいるようだ、とトコは思った。
「私、休学して、海外へ行こうと思っているの」
 トコは、えっ? とだけ叫ぶ、突然の話でビックリしたのだ。
「1年ほどね、ホームステイして、ボランティアで働こうかと思ってる、っていうか、もう来週から行くことになっているんだけどね」
 その曖昧な答え方がアサらしくない気がして、トコは不安をかんじた。
 誰かに相談したの? トコがそう尋ねると、アサは、首をふった。
「いいえ、両親にも言ってない、トコが初めてよ、もちろん、両親には今夜あたり言うつもりだけど」
 恋人には言ったの? トコは思いきって、そう尋ねた。アサにそういう人の影はないことは知っていたけど、確信しているわけではない。
 アサは、トコをじっと見つめる、トコはより緊張してきて、さっきのバカな質問が消え失せてくれたらいいのに、と願った。
「恋人はいないよ、いたとしても1年間待ってくれるかな? まあ、待ってくれなくてもいいんだけど、私もどうなるか分からないし、私、人をあてにしてないところがあるの、悪くいうと、信じきれないというのかな、私が信じたぶん、裏切られるのがイヤなの、でも、もしトコだったら、どうする? 待つ?」
「待つ」
 と、トコは、初めてはっきりと言葉を言った。「オレだったら待つよ」
 トコはふいに思い出していた、アサと初めて逢ったときのことを、自転車を停めて、桜の木を眺めていたときだ、アサはいつの間にか横にいて、同じく桜を眺めていた、初対面にもかかわらず、目があうと、彼女は長年の友達かのように穏やかに微笑んだ、目は細く丸くなり、豊満な唇は、弧を描き、輝いていた。トコは、彼女に目を奪われて、視線をはずすことが出来なかった。
 そんな微笑みを、アサはまたトコに向けていた。
「待つのは女の仕事かと思っていたよ、男のあなたが待つの?」
「そんなのに男も女もないさ」
 アサはまた先程の微笑みをした。
「トコ、あなたはいい人ね、今迄逢った人のなかで一番」
 …私は男運がないの。その最後の一言は独り言のようだった、はっきりと言葉をいうアサには珍しいほどの小さい呟き、アサの意志に反して、心が勝手に喋ってしまったような呟きだった。
 アサはトコが手にしていた本を奪い、パラパラとめくった。そして、それを読み始めた。トコは手持ち無沙汰なまま、テーブルに置かれたカップをみつめた。冷めてきたチャイをゴクリと飲みこむ。飲み物なのに、なんだか消化が悪い…。


 アサは、自宅に戻ると、久しぶりに自分のノートパソコンを開いた。気が重くなりながらも、メールの送受信ボタンをクリックする。
 このまま見ないでおこうかとも思ったが、長い間メールの確認をしてないので、来週旅立つ前に、一応見ておかないと、と思ったりもした。
 受信し終わると、同じ送信者名で、十件以上のメールが入っていた。やっぱり来ていたか…。アサはため息をつく。全てを読む気はなく、読まずに捨てようとは思っていたのだが、最新に届いたメールだけを開く事にした。
『何度もメールしてごめん、前回メールに書いたことは取り消すよ、酷いこと書いて本当にごめん、深く反省している。僕は、すぐに頭に血がのぼりがちで、その場での判断が出来ないことがある、それは僕の悪いところだと反省している。遠回しはもう止めて、単刀直入に言わせてもらうよ。そう、僕は、君に取り入りたかったんだ、どんな方法を用いても。君が僕なんて興味ないことは分かっている、それでも、なお僕は君に通じていると思っている、僕はそう直感したんだ。通じていると思っているからこそ、こうやってメールをしてしまうんだ、そのことを理解してほしいと願う。僕はもっと強くならなくてはいけないね、そのことは充分に分かっているんだ。もう今後、きみは僕を無視してもらって一向に構わない、迷惑をかけたよ。何度も謝ってばかりだ、今度こそ本当にもうメールはしないよ。コウより』
 アサは、削除ボタンを押して全てのメールを削除した、その前のメールも見なくとも、何を書いているのか想像できたからだ。
 そのメールの主コウは、学内を歩いているとき、突然話しかけられたのが最初の出逢いである。そのときは、立ち止まって、数分、他愛のない会話をしただけだった。彼は、聡明で明るく、悪い印象どころか、良い印象すら受けたので、パソコンのメルアドのみ交換したのだ。それからも、二度ほど偶然道ばたで出逢い、立ち話しをした。立ち話以上のことはない、彼はカフェにすら誘ったりはしなかったのだ、それがまたアサにとって新鮮なかんじがして好感がもてた。
 しかし、今となっては後悔する、思うにそのときから神経質で自意識過剰な口調が耳にひっかかってはいた。アサは自分が人を見抜く力はあると信じていたのだが、過信していたようだ。人となりを見抜けなかった自分自身が腹立たしい。
 コウのメールの内容を想像できたのは、何度も似たメールを送って来ていたからだった。最初は、陽気なかんじ、誰かの名言を多様したりして知識のある様子、アサのことを誉めたたえ、何でも知っているかのような内容、一度目は、アサも普通に返信したものの、次第にその過剰な思い込みにうんざりしてきていた。そのためアサが強気な発言をすると、詫びのメールが山のように届き、怒っているわけではないのだと、やんわりとした言葉で返信すると、また、同じように、誉めたたえ、理解者は僕だけだという傲慢な内容、嫌気がさし、ほったらかしにしておくと、まるっきり反応のない自分に対して、怒りのメールだったり、その直後に、詫びのメールがきたり。そのくり返しである。彼のプライドの高い情緒は激しくうねり、彼本人が言うとおり、自意識過剰な弱い人間だった、その気性は、アサにとっては堪え難いものになりつつあった。
 しかし、不思議と、コウは、メール以外に、自分に危害を加えることはなく、まるで隠れているかのように近付かず、話しかけてくることもなかったため、アサは、うんざりしながらも、ほったらかしにしていたのだ。
 そのことも、海外へ行ってしまえば、忘れ去ってしまう思い出の一つにすぎないだろう。誰もが私を忘れ、私も誰をも忘れる。誰も知らない私をまた発見してくるのだ。アサは、荷造りをほとんど済ませてしまうと、両親に海外へ行くことを伝えに、自室をでた。



3 ふたり

 ミミは、歩くのがとても早い。大股で力強く前へ前へと進んでいく。がさつな印象は与えず、背をピンと伸ばして、風を優雅にきって、突き進む。その姿は、人に爽快感を与えるだろう。
 歩いている先に、コウがいて、ちらちらとこちらを見ているのが分かった。ミミは、彼と話したいわけではなかったが、おはよう、と笑顔で言って立ち止まった、コウは、首をかたむけ、にっこりと笑った。
「きみは立ち止まってくれると思ったよ、聞きたいことがあるんだ」
 上品な口調でコウは言う。コウは、70年代をとりいれたファッションをしていて、他の学生とは違う、一風変わった印象を与えた。オシャレなのと、そうでないのと瀬戸際だわ、とミミは思う。型にはまっていて個性はないし、とりあえず、この人は、人と違うぞってことを言いたいんだろうけど、そう思っているのは自分だけよ。
「実は、アサのことなんだ」
 コウは、すぐにそう尋ねた。よっぽど気掛かりのようだ。
「いや、今週にはいってから、学校に来てないみたいだから、どうしたのかと思って…」
「あら、あなた知らないの?」
 コウは、あからさまに不愉快な顔をした、自分がアサのことを知らないことを単刀直入に指摘されたのが気に食わないようだ。
「アサなら、とっくに日本にいないわよ、1年ばかり海外に行っているみたい、まあ、1年って言っていたけど、もっと居そうなかんじがするよ、当分、帰ってこないわよ、きっと」
「ほら、アサって、あまり自分のことを人に言ったりしないだろう、なんで君がそんなこと知っているの」
「まあ、私も直前になって聞いたんだけどね、でも、ちゃんと連絡先も知っているし、あなたよりかは友達のつもりよ」
 ミミは、そう言い残すと、じゃあね、と手を降って、足早にそこを離れた。コウは、追っかけてまで連絡先を聞くという性格ではないことを知っていたため、その悔しそうな顔が想像できて、ミミは含み笑いをした。
「あっ、サト、おはよ」
 ミミは、目前にサトをみつけると、小走りで彼女の横につけた。
「ねえ、後ろにコウってまだいる?」
 サトが、後ろを振り返ると、コウのうなだれた姿を発見することができた。
「うん、いるよ、なんだか、落ち込んでいるかんじだけど、どうかしたの?」
「まあ、ちょっとね。あー、イラつく、あいつ嫌いだわ、プライド高くて偉そうなわりには、なんも出来なくてね、見かけ倒しもいいとこ」
 その発言に、サトは目を丸くした。
「えっ、そうかなあ? オシャレだし、かっこいいし、成績もいいらしいじゃない。すべてそろっているじゃないの。ミミちゃん、ちょっと厳しすぎるんじゃないの。そんなんじゃあ、ミミちゃんと付き合う人は大変だよお。そうそう、マキちゃんなんて、かなりのお気に入りよ」
 ミミは、ちらりとサトを横目でみてから、ふん、と笑った。
「あの子、ミーハーだからね。そういや、サト、最近はマキと一緒じゃないんだね」
 サトは苦笑いして、頭を下にした。
「そういえばさあ、この前、マキから相談されたんだ」
 あからさまに、ぎょっとした顔をサトがしたため、ミミは笑いながら付け加える。
「何ビックリしてんの、あなたのことじゃないよ。マキが好きな人のことの相談、あの子って、誰かれかまわず、色んな人に相談するじゃない。私なんかに、そんな秘密な内容を喋るなんてね、どんな答えを期待しているのかしら。きっと、人にかまってほしいのよね、自分のこと心配してほしいのよ、そうそう、その内容ったらね…」
 そこでミミは一度息をついた。
 マキが好きな人のことというと、Kに違いないだろう。が、マキと疎遠になって以降、その後Kとどうなったのかは知らない。聞きたい半分、聞きたくない(かかわりたくない)半分でサトが口籠っていると、ミミはそれを察したようだった。
「あんま聞きたくない? なんかあったんでしょう、ついにマキに嫌気がさした?」
 サトはミミのそのストレートな口調が好きになれない部分でもあった。ミミにとっては他人事だろうけど、サトにとってマキのことは、まだ重くのしかかっているのだ。答えにつまるようなことをわざわざ聞くなんて。
「そんなことないよ、仲良くしているよ、で、それで?」
 サトはなるたけ笑顔で尋ねた。
「サトも知っていると思うけど、そのKってさ、社内に婚約者かなんかいるんでしょう、それを知っておきながら、マキって彼とやっちゃったんだってね、どうしよう、後悔しているっていいつつ、なんか口調が嬉しそうだったよ。どうしたらいい? って聞かれてもねえ、困っちゃうよね。そんな都合のいい女やめな、って言っておいたけど、あれは全然懲りないね、またやる気だよ。悲劇のヒロイン気取りたいだけなんだよね」
「そんなことないよ、マキは…いい子だよ、ただ純粋で、一途なんだよね、そういうところが、かわいいじゃない」
 ミミは驚いたように目を丸くして、サトをみた。
「あれは純粋っていうのかしら? まだマキのことかばうなんて、あなたも相当お人好しっていうか、喧嘩した相手にまで気をつかうなんてね」
「だからさ、喧嘩なんてしてないよ、仲良くしているって、でも…そう、似過ぎていて、ちょっとだけ疲れたんだよね…ちょっと、今は、そう、ちょっとだけ距離をおいているだけ」
 ミミは、ふーん、と言葉を含みつつも、それ以上、何も言わなかった。


 ミミと別れてから、サトは、自動販売機で、コーラを買うと、校内のベンチに腰掛けた。アルコールでもあおりたい気分になったが、サトは飲めないため、炭酸を一気に飲み干すのが、今は、気持ちいい。サトは、マキのことが頭から離れなくなっていた。
 マキが、Kとそんなことになっているとは全く知らなかったのだ。彼女が突然そんな行動にでた理由は、もしかして自分と疎遠になったことが原因ではないかと考えるのだ。もし、あのまま友達でいたなら、マキは、そんな大胆なことしないですんだのではないか、寂しさに襲われ、彼の強い誘いを受けてしまったのではないか。彼女の行動がすべて自分のせいであるように思え、非常に落ち込んだ。もう一度彼女に逢って、そして謝り、友達との仲を再開させたいと願った。彼女には申し訳ない事した…。


 サトと別れた後、ミミは、イライラしながら、大股でガシガシと前進する。嫌い、嫌い、皆な嫌い。歩く時に感じる自分に吹きつける風も嫌い、太陽も嫌い、雨も嫌い、人も嫌い、マキもサトもコウも嫌い。なんで皆、こんなに私を苛立たせるの。
 サトがマキと仲たがいしたことは彼女の様子からすぐに分かった。なのに、サトはマキをかばう謙虚な態度だった、嫌いな人を嫌いと言わない、その健気さと言うのか、謙虚さというのか、つまり、それは美徳なのだろうか、それがミミにとっては苛立たせる原因となった。
 そして、マキは、誰かれかまわず自分のことを喋りまくって、同情をかおうとするのだろう、自分は一人ではなにも出来ない、なんて、かわいこぶって気持悪いよ、一瞬でも彼女に同情心を抱いた人は彼女の思うつぼね、サトは、まさしく、それにハマった一人よ、まあ、サトもサトで、人に嫌われたく無い一心で、誰にでもいい顔をしている、マキと似ているといえば、似ているわよね、ああ、そうそう、それに、コウは病気ね、喋りかたが躁鬱っぽいもの、アサに嫌がらせをしているのは彼女の態度で分かるわ。ああ、私の周りはなんでバカばっかりなんだろう、アサは、海外へ行ってしまうし…。アサ…。
 ミミは、ふいに足をとめた。皆な嫌いと言ったが、実は、そうではなかった。アサのことは好きだった…。彼女は誰にも取り入らなかった、不思議なくらい、自由だったように思う。アサが自分のことを友達として認めていてくれたかは分からないけど、私は彼女のことが好きだった。何も言わないで、海外のことも決めていたし、日常生活のことも、そんなに相談してはくれなかった、次に何をしようと考えていて、何を行動しようとしているのか検討がつかなかったけれども、そんな突拍子もない行動が好きだった。世の中や人に執着していない様子。それは、私にはないものだ。
 ミミには分かっていた、こんなに人が嫌いで、こんなに何もかも嫌いに思ってしまうのは、全てにおいて執着しすぎているせいだ、本当は人が気にかかり、本当は人が好きなせいなのだ。どうでもいいことになるくらい、アサみたいに達観したいのだと…。
 もっと楽に生きたい、もっと楽しくなりたい。人にかぎらず、この風だって、太陽だって、草花や樹だって、皆な好きになりたいんだ。
 ミミが眼前の大きな樹を眺めていると、側でもう一人その樹を眺めている人がいることに気付いた。それは、どこにでも歩いて行くやつ、無口だし、何か言ったかと思うと意味不明だったり、ミミのなかでは変人のレッテルをはっているトコだった。
「おはよ、トコ、この樹がどうかした?」
 ミミが声をかけると、トコは、無言のまま彼女へと振り向いた。
 彼はTシャツにジーンズ姿で、単純な組み合わせなのだが、彼のスマートな体型と、童顔にもみえる整った顔のせいか、不思議とそれを着こなしている。
「君もみていたじゃない」
 君と言われたとき、トコが自分の名前すら覚えてないことに気付いた。
「ねえ、トコ、歩いてきたの? どのくらいかかるの?」
「そうだな、4時間くらいかな、色々散歩しながら来たから」
「本当に歩くのが好きなのね、そんな人がいるなんて信じられない、疲れるだけじゃない」
「そう? 楽しいよ、季節がよく分かるじゃない、色々と発見があるんだ」
「私には全く分からないけどね、何でも早いほうが好きよ、ゆっくりだとイライラしちゃう」
「そういえば、あの人もそんなこと言っていたな、でも、僕はこう答えたんだ、でも、君もこの樹をみていたじゃない、僕と同じことを考えていたんだと思うよ」
 そう小声で、詩を朗読するふうに言い残すと、トコは再びトコトコと歩き始めた、もうすでにミミのことは眼中にないようである。
 ミミは、あの人という言葉の前に、アサという名前を呟いたことに敏感に反応した。ミミはトコの後ろについて、歩調を合わせて一緒に歩いた。彼の歩幅のほうが大きいのに、ミミが歩く速度よりは遅くかんじた。彼がゆったりと歩くのに対して、いつものミミは、セコセコと歩いているのだと思った。
「ねえ、トコ、待って、一緒に行きましょう」
 ミミは、彼の腕をがっしりと掴むと、動揺するトコを無視して、親し気に微笑んだ。



4 ふわり

 
眠れない夜は。羊を数えるのが一番だ。
 コウは眠れない夜にそう考えながら、ベッドで体をゆすった。羊を数える、いや、羊でなくてもよい、犬だって、熊だって、牛だっていいのだ、とにかく、無心に数をかぞえること。
 羊を数えるにはやり方がある。羊が柵を飛び越えて、白い雲の一部になるのを想像するのだ。まず一匹目、また飛び出し、白い雲になる、二匹、数が増えていくと、どんどんと白い部分が増えていく、150匹目。もっともっと白くなる、200匹、全てが白で被い尽くされていく、1000匹目。千匹まで数えても、まだ眠れなくとも心配することはない。千なんて、まだまだ余裕だ、一番多くて、5555匹を数えたことがある、ゾロ目だ、運がいい。
 眼前が白でいっぱいになると、脳みそが、いや、思考が白くなる、白くさせるのには意味がある、余計なことを一切考えないようにするためだ、眠れないのは、余計なことを色々考えてしまうからだ。余計なこと、そう、世の中には、余計なことが多すぎる、たくさんの余計なことを、真っ白にうめ尽くさなくてはならない、何も考えないように、何も考えなくさせる必要があるのだ。何も考えたくないんだ。数字以外、数字以外。ただ数をかぞえる、それだけ、単純。
 コウにとって安眠はそれこそ夢だった、夜は特に思考をかきみだされた。自分は無用な人間であるという考えに押しつぶされそうになった。暗闇に侵食されそうになった、そもそも無用じゃない人間なんているのか、まあ、間違いなく、その一番が僕さ。
 夜は嫌いだ、夜は孤独だ、寂しい。コウは人にすがりたい一心で、メールをうった。アサへ、きみならこの気持ちが分かるんじゃないか?頭の良いきみなら、きっと僕の気持ちが分かるはずさ、きみは美しいだけじゃない、もっと何かを秘めている。そう、僕の気持ちを知っているだろう、きみなら分かるはず、きみは何でも見通している、きみじゃなきゃダメなんだ、僕は面と向かってきみにそんなことを言えるような器量はない、知っているだろう。僕はダメな人間なんだ。返事をださない?それも僕を試しているんだろう、お願い、こたえてよ、こたえて。無視しないでくれよ。そんなの卑劣だ。アサ、きみは卑劣だよ。
 眠れない夜は続く。コウはベッドに横たわりながら思う。結局のところ、いろんな動物を試してみたけど、羊が一番だね。その白くて、フワリフワリしたかんじがいいんだよ。暖かそうだろう、愛があるかんじがするだろう。そう、羊が一番いい。


 マキの携帯がなった。
「お疲れさまです、あれ、どうかしましたか?ええ、今、帰るところですよ、すいません、私、なにか忘れていましたか?」
 マキがバイトから帰ろうとするとき、マキのピンク色の携帯電話がなったのだ、スヌーピーのストラップがつってある。その相手はKだった。マキが陽気な声でそう言うと、Kは、仕事のことじゃないんだ、と答え、こう続ける。(今日、飲み会があるんだけど、来ない?時間ある?)
 マキは、えっ? と笑いながら、かわいらしい声をだして答える。
「ええ、毎日ヒマですから、今からですか?駅で待ち合わせですね。ええ、全然かまいませんよ…分かりました、それじゃあ」
 マキは、電話を切ってから、そわそわしてならなかった、化粧はちゃんと出来ているだろうか、髪型は? 側にあるファーストフードにかけこむと、早速メイクを整え始めた。
 以前、何度かKに飲み会に誘われて、ついていったことがある。いつもマキは、2、3次会まで、彼に付き合わされることになるのだが、そのころになると、最初、大勢の同僚などがいたときとは違う顔をみせるようになる。二次会になると、Kはマキを横に座らせて、誰にも分からないように、そのスカートの下に手をいれて、執拗に股に触れてきたり、冗談に見せかけつつ、マキの豊満な胸を揉んだりした。
 マキは今迄コンプレックスだった、この大きな胸のことを初めて喜ばしいものだと感じた。Kは言う。大きな胸ってやっぱ魅力的だよね、俺は好きだよ。
 確か、Kの恋人は胸が大きいほうではなかった、マキは、彼女に勝てるのは、この胸だけだ、と優越感を感じるのだ。
 そして、今夜も、相変わらず、似たような光景がくり返された。それはマキが予期したとおりだった。初めて触られたときは正直驚いて、動揺が隠せなかったが、それも最初だけだった、今ではそれを期待している部分があることをマキ自身分かっていた。Kは、話題が豊富で面白いし、仕事はできるし、なんと言ってもかっこいいし…。マキは、酔うたびに彼に自ら体を近付けて行くのだ、眼前にいるものは誰も知らないだろうが、今、まさに彼の厚い指は私の中に入っている。秘密めいていて、それがまたマキを喜ばせた
 三次会半ば頃、彼は同僚に耳打ちしながら、にやにやと笑っていて、何かしら企んでいるのがマキにも分かった、いつの間にか、その同僚と三人しか残ってなく、それをマキが認識したときには、さっ、お開きだ、と彼は言った。
「遅くなっちゃったね、送っていくよ」
 いつもは知らんふりで、そそくさと帰って行く彼が、その日は優しくそう言うので、マキは有頂天になる。
 少し歩こうか、とKは言い、一駅ほど遠回りをして、夜道を歩いてみたりして、それは、まるで恋人どうしのようだった。さっきまで触れていたKが妙によそよそしく感じられたが、腕を組んでみても拒否はされず、マキは恋人気分を堪能する、そう、彼とはこんな雰囲気で二人きりになったことはなかったっけ。
 Kは、一点を指差し、マキを引き止めた。
「ごめん、トイレ行きたくなっちゃった、あのビルで済ませていっていい?」
 人気のないビルに二人が入って行き、トイレに辿り着くなり、突然Kは豹変し、力強くマキをその中に押し込んだ、無言で彼はマキに被いかぶさり、慌ただしく下着を脱がせる。
「ねえ、ちょっと待って。恋人いるじゃない、彼女が悲しむんじゃないの?」
 マキは動揺しながらも、急速に、冷静になっていて、彼が必死で下げる自分の下着の行方を見つめた。
「そんなこと関係ないよ」
 マキはほくそ笑む、彼女に勝った気がしたのだ。トイレのタイルはとても冷たかった、でも、それがマキをより一層高揚させた。至福のときだった。
 帰宅後、マキは、膣から出血が止らなくなり、翌朝も体がだるくバイトを休みたかった、しかし、別れ際に、彼から、明日は何ごともないように出社してくれ、と忠告されていたから、休むわけにはいかない。マキは無理を押して仕事にいく、なのに、彼は優しい言葉をかけるでもなく、素っ気なかった。
 彼の恋人に勝った気でいたのに、彼の態度のせいで、それを台なしにされた気がした。遊びだという言葉が脳裏に過ったが、マキはそれを押しのける。もっと優しくしてくれたらいいのに、と彼の態度を不満に思いつつも、嫌いにはなれず、マキは、もっともっと彼をひとりじめしたいと思った。
 それからの彼は、飲みにいくという、まどろっこしい手順は踏まずに、単刀直入にマキをホテルに誘った。マキは、Kの誘いを断ることはなかった、いや、誘われたときは、嫌だ、嫌だ、と彼をじらしたりする、でも、結局は、彼の後を着いて行くのだ。
 マキは、もしかしてKが恋人と別れて、自分と付き合うと言うのでは無いかと、胸を踊らせながら彼に逢う。今日こそは、彼のほうから、愛していると言ってくれるのではないかと。まだ、彼の口から、その言葉を聞いたことがないが…。きっとそのうち私のところにきてくれるはずだ。彼は優しいし、そんな悪い人じゃないもの、遊びなわけないよね。そして、今夜も、Kに誘われていた。


 サトは教室の前で、マキの授業が終わるのを待っていた。マキに謝らなければならない、と思っていたからだ。
 マキが出てくると、サトは彼女の目線に入る所に立ち、おはよう、と言った。マキは一瞬困惑した顔をしたものの、平静に、おはよう、と答える。
「マキ、あの…以前は、ごめんね、バイトもすぐに辞めちゃったりして、反省しているんだ。また友達になりたいと思って、もちろん、マキがよかったらだけど…」
 マキは、みるみる顔色がよくなった。
「私こそ、ごめんね、いろいろ迷惑かけちゃったもんね、私もとても反省しているんだ、私には、サトちゃんしかいないから」
 ふふふっ、とサトが笑うと、マキも、おかしそうに、ふふふっ、と笑う。二人は照れくさそうに手を取り合い、お互い微笑みあっていた。
 

 二人のやりとりは、こんなかんじで始まる。
 「ねえ、サトちゃん、代官山に、かわいいショップができたんだよね、行かない?」「うん、いいね、かわいい服欲しかったんだ、行きたい、行きたい、どういう風なかんじなの?」「色にするとピンクってかんじ、ふりふりってかんじなんだけど、大人っぽくていいんだ」「そっか、そういうのいいよね、私ももっといろいろ着たいしね」(サトの格好は、パンツスタイルにシャツを組み合わせた、シンプルなものが多かった)「ねえ、私これにしようかな、ねえ、どう? これお揃いにしない? ほら、かわいいでしょ?」(それは、白い生地にピンクのストライプの綿のシャツで、胸が広く開いている、サトは、首までキッチリとしまったシャツを好んで着ていたため一瞬躊躇する)「胸がギリだよ、マキちゃんは似合うかもしれないけど、私はどうかな、ああ、でも、とても可愛いから、悩んじゃうな」「いいじゃない、着ようよ、サトちゃんにも似合うと思うんだ、私もこういうの持って無いから、お互いに、挑戦、挑戦」「うん、そうだね、マキちゃんとお揃いだしね」(結局、二人はお揃いのシャツを購入することになった)
 サトは、家に帰ってから、そのシャツを広げてみた。決して安くはなかった、そのシャツを、サトは着る気分にはならなかった、それに、マキにだってこれが似合うとは思えなかった。今迄のマキの趣味とは明らかに違っていたからだ。サトはため息をつく。
 思い出してみると、このところのマキの服そうは、以前とは違ってきていることに気付いた。マキもどちらかというと、パンツ系が多く、スカートなら膝たけのものを愛用していて、可愛い服装ではあったが、その可愛さには幼さがあったし、胸をあけて大人っぽく着こなすというふうではなかったのだ。しかし、今日の服装は、大胆に胸が開いていたではないか、しかも、ほのかに香水をつけていたし、今更ながら、マキの以前との違いに気がついた。
 サトは、マキに携帯メールをうった。
『今日は、楽しかったね、今、何してるの?明日は、買った服を着て行こうかなあ』
 以前だったらすぐにメールが返ってくるのに、その夜は、一向に返ってこなかった。確かに大した内容ではないけど、以前のマキならマキのほうから素早くメールしてきていたし、その倍のメールが返信されてもよいはずだ。サトは、また一つ大きなため息をついた。


 翌日、マキは昨日買った服を着てきていた、サトのほうはというと、服をまた紙袋に戻してしまって、今頃、部屋の隅に無造作に置かれていることだろう。
「あっ、マキ、かわいいー、私、朝急いでいたから、着てくるの忘れちゃったの、ごめんね、今度は、おそろで着ようね」
「うん、今度着てくるとき教えてね、私もあわせるから」
 二人は肩を並べて歩き出す、サトは、彼女から目をそらして、言う。
「メール、昨日、きてた? あのお、大した内容じゃないんだけどね」
 マキは驚いたような目をして、慌てて言う。
「あっ、ごめん、メールきてたよ、自分ではレスしたつもりでいたんだ、ごめん、送ってないよね? あー、ホントごめんね」
 サトは、全然いいんだよ、と呟き、しばらく口籠った。そして、あのね、聞きたいことがあるんだけど、と、切り出す。
「気に触ったらごめん。あの、ねえ、もしかして、Kさんと付き合っているの?」
 マキは、もっと大きく目を見開いて、驚いた顔をした、そして、笑い出す。
「どうして? 私が、Kさんと付き合えるわけないよー、恋人がいるんだから」
「そうだよね、ちょっと聞いたんだよね、あの…Kさんと、やっちゃったとか、そういうの…」
 マキは眉間にしわをよせ、哀しそうな顔になって、うつむいてしまった。
「あっ、ごめん、嘘だよね、変なこと聞いてごめんね」
「ううん、それ本当よ、実は、サトに相談しようと思ってたんだ…Kさんとのこと…言うのが遅くなってごめんね」
 二人は立ち止まり、お互い深刻そうな顔をして、見つめあう。そして、マキは誘うようにサトの背中をおして、ちょうど側にあったベンチに腰掛けさせた。サトはこの世の終わりかのようなか細い声をだす
「きっと大変だったんだね…」
「うん、大変だった…、辛かったよ。Kさんに無理矢理誘われてね、やっちゃったの、でも、今では、すごく後悔しているの、両親にも申し訳なくて顔がみられないくらいよ、こんなみだらな子になっちゃって、ごめんねって。Kさんには恋人がいる、しかも、毎日、職場で彼女とは顔をあわせている、そんな状況で、やっちゃうんだから、とても辛いよ、ミミちゃんなんて、威して彼女から奪うぐらいの勢いでいけば、なんて言うんだけど、私には、そんなこと出来ないよ、だって、彼女が可哀想でしょ。私とそんなことになっているなんて知ったら彼女はどんな反応するだろう…。だから、彼を許すしかないの。ねえ、サトちゃん、分かってほしいのは、後悔しているってこと、こんなふしだらなことして、本当に後悔しているの…」
 涙をこぼさんばかりにマキの声は震えていた。サトは、彼女の頭をなでて、大変だったね、と、彼女を慰める。
「奪うとか、いずれ自分のところに来るとか考えないほうがいいよ。マキが傷付くだけなんだから。ほんとマキの一途な気持ちをこんな利用するなんて、ひどい男だよ、まったく。じゃあ、Kさんとは、もう、それっきりなんだよね。誘われても、もう拒否するんだよ、もうこれからは無視だよ、無視」
「うん、もちろん、一度きりだよ、だって、後悔しているんだもん、もう、二度としないんだ」
「ねえ、マキ、会社にいるの辛いでしょ? もう辞めたほうがいいんじゃないの?」
 うん…、マキは答えに詰まる。
「あっ、うん…、辞めたいとは思っているんだ、でも、Kさんに相談すると、辞めるなって言うから、あっ、それに、今、この時給のいいバイト辞めて、次にいいのがあるのか分からないし、辞めたいとは、ずっと思っているんだけどね」
「確かに、そうだけど…」
 サトは、それ以上の言葉につまり、うつむいた。
「あっ、そうだ、そうだ、さっき、サトちゃんと逢う前に、コウくんと喋ってたんだー」
 いきなり、声のトーンがあがり、マキは満面の笑みでそう言った。
 突然の話題変更に、サトは一瞬ついていけなかった。これ以上そのことを話したくないのは理解できても、一体さっきまでの落ち込みぶりはどこへ行ったのだろう、とサトは思う。
「ほら、以前に、コウくん、かっこいー、って一緒に言っていたじゃない、なんだかクールっぽくて、近寄りがたいところがあったもんね、けど今日、思いきって、話しかけてみたんだよね、すごいでしょう」
 マキは嬉々として、喋り続ける。
「そしたら、服がかわいいね、って誉めてくれて、とても話しやすくて、嬉しくなっちゃった。でね、今度、ドライブに行く約束しちゃったの、ねえ、サトちゃんも一緒に行くでしょ?」
「そっか、コウくんと喋ったんだ、スゴイね、私も行きたいけど、でも、それって、マキだけ誘ったんだと思うし、私がいると邪魔じゃないかな」
「そんなことないよー、じゃあ、ちゃんとコウくんにも、聞いておくね」
 サトは、笑みを浮かべつつも、それが、本当に笑ってないことに自分自身分かっていた、彼のことがかっこいいと言っていたのは、正直、マキに合わせてのことだった、マキは、もともと、容姿のいい男の人には目がなく、どこからか見つけてきては、いつも騒いでいるところがあった、ただ、それはアイドルを追っかけるのと同じで、遠くから見つめ、かっこいいね、って言っているだけのものが大半である。それだけで楽しいのだ
 そう、Kもその一人だったはず。しかし、まさか、自らコウに話しかけにいくとは…。以前とは、違うマキがそこにはあった。そのうち、彼女はこう言い出すかもしれない。
『コウくんとやっちゃったの、でも、Kさんも好きだし、うーん、選べないの、私に選ぶ権利はないっていうか…。私ってふしだらよね、ねえ、どうしよう、後悔してる、後悔しているんだ』


 そのままマキはバイトへ行ってしまい、サトはひとりきりでトコトコと歩いて帰っていた、電車を使えば早いのだが、今日は、歩きたい気分だった、そう、トコのように、周りの空気を感じつつ、無心に歩くのだ。
 すると、その目前に、トコが歩いているのを見つけ、サトの胸は踊った。いつも彼とはタイミングがいい。
「トコ、元気ぃ?」
 トコは、ちらりとサトをみると、やあ、とだけこたえた。
「もうすぐ夏だね、暑いと歩くのが嫌になったりしないの?」
「いや、暑いのは好きだよ、夏は暑いもんさ、家でもクーラーをつけないし」
 そっか、とサトは、トコの後ろを子犬のように歩調を合わせて、歩いた。
「ねえ、トコ、私も一緒に歩きたい、ついて行っていい?」
 トコは、うん、とだけ頷いて、また歩きだした。
 トコの前だと素直になれる気がした、なにも隠す必要はない、頑張る必要もない、気を使うこともない、トコは何も言わない、何も忠告することもない、だからなのか、彼の前では、自然でいられる気がしたのだ、そのままのサトでいい、と言われているようである。それが、サトの心を和ませる。
「ねえ、トコ、今から予定あるの?」
「うん、映画にね」
 何もない、という答えが返ってくると思っていたサトは、えっ?と高い声をあげる。
「映画?珍しいね、私も映画をよく観にいくよ。何を観にいくの?」
「珍しくないよ、一人でちょくちょく行っているよ」
 結局、何の映画にいくのか?という答えはかえってこなかった、どちらかというと、トコはどういう映画に関心があるのか、ということのほうに興味があった。トコは、当たり前だが、毎日ただ歩きまわったり、毎日ただ自転車で走りまわったりしているわけじゃない。トコは一体何が好きで、どこで何をしているのだろう、とサトは考える。
「いつも一人で?」
「うん、一人は嫌じゃない」
 サトは、トコは一人きりでサクサクどこにでも行くのが好きなのなら、自分は必要とされてないだろう、などと、どんどん気弱になってきていた、ついて行くのは、やはり迷惑じゃないだろうか。
「あっ、でも、今日は、もう一人いるけどね」
 そう、トコが付け出したとき、正面で、女性がこちらに向かって、手を振っていることに気がついた。
「ミ…ミ…?」
「うん、彼女と知り合い?」
 サトは無言になり、ミミが近付いてくると、モンスターが近付いてくるかのごとく、後ずさりした。
「あら、サトじゃない、久しぶり」
 さほど、久しぶりでもないのだが、サトも、久しぶり、と答える。
「これから、映画に行くんだ、サトも一緒にどう?」
「いや、だって、二人の邪魔しちゃ悪いから…」
 ミミは、ははっ、と高らかに笑う。
「やだ、ただの友達だけど、私達。勘違いした? お似合いかなー、私達、付き合っちゃおうかなあ」
 ちらりとトコを見ると、彼は、ニコリと笑いかけてきた。トコが笑顔になるなんて珍しいし、その笑顔が、一体どういう意味なのかとサトは勘ぐる。トコはミミのことが好きなのだろうか? ミミはどうなのか? 考えれば考えるほどサトは、気が狂いそうになった。
「そういや、サト、またマキと復活したみたいだね。大丈夫なの?」
「大丈夫もなにも、喧嘩してないし、それに、マキは、いい子よ、純粋で素直で、私は好きだよ」
「本当に? 無理してない?」
「ミミには分からないんだよ、マキの繊細さが。それに、マキは私がいないとダメなんだよね…。そう、この前も、おそろのシャツ買ったんだ、二人で一緒に着ようって言っているんだ、お気に入りなんだよね」
 サトは明るく笑顔でそう言ったが、その顔がひきつっていることは自分でもよく分かった。ミミは無言のまま肩をすくめた。
 サトは、トコがこの会話について、どう思っているのか、彼の様子が気になって気になって仕方なかったが、トコは興味なさげに、そっぽを向いているだけであった。
 トコは、私なんかに感心ないんだ…。
 それじゃあ、とサトは切り出すと、突如、駅の方角へ走り出し、二人から急速に遠ざかった。
 涙がでそうだったが、それは堪えた。もっと遠ざかりたかった、もっともっと、このまま遠くへ、人からも、誰からも、全てから、どんどん遠ざかり、ただひたすら、誰もいないところへ行って、一人きりで消えてしまいたかった。

- 終 -
(2004/4)