生きる
いつになっても自殺という言葉はニュースでよく聞く、最近はネットで知り合って集団自殺とかハヤりのように多いよね。ニュースのキャスターは、考えられない、というコメントが多いけど、私は、その気持ちが分からないでもない。学生時代に、仲のよい友達には、長生きしたくない、早く死にたいんだ、遅くとも20代半ば(つまり今ではもう過ぎてます(笑))までには死にたい、と漏らしていたし、三島由紀夫の「豊饒の海」に影響をうけて、10代の頃は、20才までには死にたい、いやきっと死ぬ、なんて、ひそかに願っていたし。長く生きていくことが、良いことのようには全く思えなくて、人間自分で期限を決めたほうが、より濃く、楽しく生きられるっていうもんだ、って思ったりした。でも、期限がきたからといって、賞味期限切れのなまゴミみたいにポイと捨てればお終いというわけにはいかず、いざ死ぬとなったら、一体どうやって死ねばいいものか、と考えたものだ。まるで死ぬことが待ち遠しくて、生きていくより楽になれる気がしてたんだと思う。でも、空想のなかの死と違って、実際の死は、とても痛いものだ、とても辛いものだ、女性に自殺未遂が多いのがよく分かる、いざとなったら死にきれないのだろう。(男性は思いきりがいいのか、自殺未遂は少なく本当に死んでしまうらしい) そのため、死はとてもみじかである一方、とても遠いものだった。死に憧れる、という言葉が適切かどうか、そんな思いを抱きながら、20代前半を過ごしていた私としては、死というものが、恐いという印象はない。だが、今、そんな20代も過ぎ、死への憧れも時期も過ぎ、生きることの辛さも楽しく思えて来て、以前は想像もしてなかった結婚と出産を通り過ぎゆき、いつの間にか、私は、死というものを恐れ始めたように思う。その前兆が、戸締まり。なんどもベランダなどの鍵が閉まっているかどうか確かめてしまう。もし、誰か侵入してきて、子供が殺されたりなんかしたら、と恐い想像をしてしまったりする。出産して以前とあきらかに違うのは、子供の存在。もしこの子の命になにかあったら、私は白痴になりそうだし、逆に、もし私が先に亡くなるようなことがあったら、私は死んでも死にきれない。それこそ幽霊にでもなって、この子を見守っていきたいと思うだろう。以前はないがしろにしていた命というものが、今となっては、貴重で重いことが分かる。10代の頃は、もっともいらないものは子宮だ、なんて言っていたのが、今では懐かしいくらい。何もしないで文句ばかり言っていたあの時代より、色々体験して生きることの貴重さがわかるようになってきた今、当時自殺することなく生きてこれたことに感謝したい気持ちだ。ニュースで実際に自殺してしまった人の話を聞くと、「成功したんだ、それは残念だね」と言いたくなる。死にたいと言っている人は、本当は死にたいのではなくて、人の助けを切なに待って、生きていきたいと必死にもがいている状態だと思うから。深層では誰もが生きていきたいんだと思う。(2003/5)

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